「じゃあ、お疲れさまでした」
「お疲れさん」
 
 ここは俺のバイト先である「コペンハーゲン」
新都の駅前から少し離れた所に位置しており、夜は仕事帰りのサラリーマンたちで賑わいを見せる飲み屋である。
 また、この店の少し特徴的な点は、昼間は飲み屋というよりも酒屋として営業しているところだ。
この二通りの店として機能することによって、酒好きな客からはかなりの好評を博しているようだ。
 実際、今日来ているお客の中にも、“固定客”と呼べるほどにいつも来てくれるお客様がちらほら見受けられるくらいだった。

「今日はホントすみません。こんな忙しい時間に、我が侭言って早上がりにさせてもらって」
「いいの、いいの。士郎くんはいつも良くやってくれてるし、それに今日は何か特別な用事があるんだろ?」
「そうなんですけど……」
「だったら、早く帰ってやりな。待ってる人がいるんだろ?」
「はい、ありがとうございます……オヤジさん」
「じゃあ、気を付けて帰りな」
「はい。お疲れさまでした」
 そうして俺が頭を下げたちょうどその時、厨房の奥から怒声が聞こえてきた。
「お父さんっ、いつまでサボってるの!? オーダー溜まってるのよっ!!」
 それを耳にした俺とオヤジさんは、お互いの顔を見合わせ、そして肩を竦めて苦笑した。
「悪いな、士郎くん。“お姫様”がお怒りのようだ」
「えぇ、その様ですね。すみません、引き止めてしまったみたいで」
「だから、いいって、そういうのは。それより、また宜しく頼むよ、士郎くん。じゃあ……」
「はい。ネコさんにも宜しく言っておいてください」
 もう既に身体を翻していたオヤジさんは、こちらに背を向けたまま、手を振って応えた。
 そしてオヤジさんが厨房の奥に姿を消したのを見送ると、俺もこの場を後にした。



「うぅぅ〜〜、結構冷えるな、この時間になると」
 店の外に出た俺を待ち受けていたのは、そんな全身を震え上がらせるほどの空気の冷たさだった。
 また、辺りの木々も衣を失い、随分と寒そうな姿になってしまっていた。
「もうそろそろ、冬支度を始めないとな……」
 吐いた息は白く、宵闇の中へと消えていった。

「さて、そんなことより早くしないと、店が閉まっちゃうからな。まぁ、走っていけば身体も温まるだろうし」
 自分自身にそう呟いて、俺は足の回転を上げた。

 実は今日は、月末の給料日。
 外はこんな寒さではあるが、サラリーマンたちの懐は温かい。
そのせいで客入りがいつもより多かったのである。
そう言えば、熱燗を頼むお客さまが多かったなぁ、と少し思い出し笑いをしてしまったりもした。
 そして、そんな彼らと同様に俺の懐も今日は温かい。
と言うのも、先月はいつもより多めにシフトに入れてもらい、皆が受験勉強に明け暮れるこの時期、俺は懸命にお金を稼いできたのである。
 この日のために。そして俺はこれを使って……

 心を躍らせながら、足を前へ前へと進めていく。
けれど、それを遮ったのは信号の“赤”色だった。
「しまった、この信号機って長いんだよな。近道したのが裏目に出ちまった」
 ぶつぶつとこぼれ出る愚痴。そして急かすようにその場で足踏みをするのだが、勿論そんなことで信号が早く変わるわけがない。
 腕の時計を見やってみる。
時刻は8時、10分前。今から行く店の営業時間が8時までだから、ギリギリ間に合うかどうかという時間である。
(変われ、変われ、変われ……)
 そう念じてみても、勿論変わるはずもない。だって、そんな魔術を俺は習得しているわけでもないのだから。

 だが、変わったこともあった。
 それは、天気。暗く、遠い空の向こうから、雫が落ちてきたのである。
「えっ、雨? 天気予報じゃ、明日の朝からって話だったのに」
 手のひらを上に向けてみると、いくつもの水滴がその上に舞い落ちてきた。

 そしてその雨脚は一気に強さを増していき、30秒も経たない内に、俺の全身はずぶ濡れになっていた。
「冗談じゃないぞ、全く。何でこういう時に限って……」
 顔の水滴をぬぐってもぬぐっても垂れてくる。
その苛立たしさが信号での待ち時間を相まって、不快さが累乗していく。
 そのため、俺はその信号の色が“赤”から“青”に変わった瞬間には、既に駆け出していた。
 水を含んだ服が、そして靴が重く感じられる。
また、その靴の中に入った水がガッポガッポいうのも、さらに不快だった。
 それでも、俺はその横断歩道を全速力で駆け抜けていく。

 そして、俺が長い横断歩道の中央まで来た時、事は起こった。
 バシャン――――道路中央に出来た僅かな水溜りを俺の足が踏みしめる。その強さのせいか、水飛沫は俺の目線の高さまで飛び跳ねた。
 飛び跳ねた水飛沫、そして、雨――――それらが俺の真横から照らす光を乱反射させ、俺の視界を奪った。
「――――っ!?」
 目が眩むほどのその光は、車のヘッドライト。しかもそのライトは上向きになっているせいか、この距離ではあまりにも強すぎた。しかも、その光は止まることを知らず、さらに強さを増していく。
「おい、冗談……だろ?」
 完全な“白”の世界。
 その中で感じられるのは音。
 雨の音。街中の騒音。そして――――車のブレーキ音。

 俺が最後に聞いたのは、耳を劈くほどのそんな音だった。







貴方を想いたい







「先輩、遅いな」
 私は今、衛宮家――つまり、先輩の家の食卓の前に座していた。
いつもの衛宮の家とは見間違うほどの静けさが辺りを取り巻いているのが分かる。そしてその静けさが私の胸の中に妙な不気味さを呼び込んでいた。
「サクラ、少しは落ち着いてください。遅いと言っても、まだ8時にもなっていないのですから」
「うぅ、そうなんだけど、でもぉ……」
 確かに先輩は今日は早く帰ってくると約束してくれたけれど、本来なら10時を過ぎるのが普通であることから、まだこの時間では早すぎる時間なのである。
けれど、さっきからずっと感じている不気味さが離れてくれない。
 そんな私のそわそわした姿を見て、私の後ろに立つライダーは肩を竦めていた。
「私には良く分かりませんが、これでも飲んで落ち着いてください。今日は特に冷えますからね」
 そう言って、私の肩越しに差し出されたのは、湯気の立つのがはっきりと見えるほどに熱そうなお茶だった。
「ありがと、ライダー。…………熱っ!?」
「だ、大丈夫ですか、サクラ!? すみません、まだ沸騰したてのお湯で煎れたので……」
 バランスを崩しそうになってしまったその湯飲みをライダーが何とか支えてくれたおかげで、大惨事になることは何とか免れることが出来た。
でもその代わりに、ライダーの手に少しだけその熱いお茶がかかってしまった。
「ご、ごめんなさい、ライダー。すぐに冷やさないと!」
「私は大丈夫ですよ、サクラ。それよりもサクラの方こそ火傷をしませんでしたか?」
「うん。ごめん、ごめんね、ライダー?」

 私はライダーのその手を取ると、すかさず口に含んでいた。
「サ、サクラ?一体、何を!?」
「んっ、ちゅ……くちゅ……」
「ぁ……サクラ、や、やめてくださ……い」
 ライダーの白い肌が、白い指が少しだけど赤く腫れてしまっている。
 私のせいだ。
 そう思ったのが先か、それとも後か、どちらかは分からない。けれど、その痛々しくも見える指をいつの間にか私は舐めていた。
「はむ……、ごめんね、ライダー。こんなに綺麗な肌に火傷させて」
「……んぁ、サ……ク……ラ……」
 私は彼女の手を撫で、そしてその白い肌を上を私の赤い舌が這いずり回る。
もし鑑が側にあって私自身の姿が見れるなら、その姿はとても……

「サクラ、いい加減にしないと怒りますよ!?」
 そして、ポカッと頭を叩かれた。
「あぅ、ライダー……痛い」
「当然です。痛みを与える為に叩いたのですから」
「でも、ちょっと強く叩きすぎ」
「その必要があったからですっ」
 火傷した方ではない手でずり落ちた眼鏡を戻しながら、ライダーはそう厳しく言い放った。
「全く……サクラはやはりさっきからおかしいです。そんなにも士郎のことが心配ですか?」
 こめかみに指を当て、「冗談はその辺にしておいてください」とでも言うようなため息をついた。
「……予感がするの」
「えっ?」
「何か、とてつもなく嫌な予感がするの。だから、もしかしたら先輩に何かあったんじゃないかって」
「…………」
 それを聞くと、ライダーは途端に黙り込んでしまった。そして真剣な表情をする彼女に、私も話しかける言葉を失っていた。
 今この家に居るのは、私とライダーの二人だけ。
そんな私たちが沈黙することによって、一瞬だけ涌いた賑やかさも途端に消え失せてしまっていた。

 しーんとする“沈黙の音”が耳に痛い。
その沈黙に耐えられず、私は堪らずに耳を押さえつけるのだけれど、“沈黙の音”は聴覚を無視して私の中に響き渡ってくる。
(ぁ……、うぅ……)
 そして、先程の予感が相乗効果を成し、私に一層の気持ち悪さを与えてくる。
(先輩、せんぱい、センパイ――――!!)
 心の中で、先輩に精一杯呼びかける。
けれど、先輩がそれに応えてくれることはなく、応えてくれるのは“沈黙”だった。



 沈黙は孤独の音色を奏でる。
 私の側には誰の気配も感じられない。
先輩が居ない。ライダーが居ない。姉さんが……居ない。
 私は独り。わたしはヒトリ。ワタシは一人。私はhitori……



「サクラッ、サクラ!! しっかりしてください、サクラ!」
「えっ、あ……、ライダー?」
 ふと気付いた時、私の目の前にはライダーが居た。ライダーが……居てくれた。
私の肩を痛いくらいに強く掴み、まっすぐの視線を向けてくれていた。
「ライダー、私、怖いです。ひとりぼっちが怖いんです」
「大丈夫です。サクラの側には私が居ますし、士郎だってもうすぐ帰ってきますから……ね?」
「うん」
 そう言って、ライダーは私の背を優しく撫でてくれた。私の震えが止まるまでずっと……

 そしてようやく私自身、落ち着きを取り戻した時、私の背を撫でてくれていたライダーがふと首をある方向へと向けた。
「どうかしたの、ライダー?」
「いえ、ただ……どうやら雨が降ってきたようなのです」
「雨?」
 私もライダーに従って、目を窓の方へと向けてみる。のだけれど、光の関係と距離が要因で窓の外の様子は全く窺い知ることが出来なかった。
「ライダーはここからでも外の様子が見えるの?」
「ええ。私の“目”は特別ですから。それにサクラ? どうやら雨脚も強くなってきたみたいですから、もうその音が聞こえて来てるでしょう?」
「……音」
 沈黙が怖かった。目を澄ましてみるのが怖かった。
 けれど、今度は私の側にはライダーが居る。彼女が私の背中を撫でてくれている。
だから、私はそっと目を瞑り、耳を澄ますことが出来た。
「…………」
 そして聞こえてきたのは“沈黙”ではなく、雨の五月蝿いくらいの音だった。
「ホントだ。でも、確か先輩、傘持って行ってないのに…………あっ、もしかしたら、それで帰れなくなってるのかも」
「それは言えるかもしれませんね。一度、士郎のバイト先に連絡してみてはどうですか?」
「う、うん。そうだよねっ。もしかしたら、先輩まだバイト終わってないのかもしれないしね」
 うんうんと頷きながら、私は即座に電話のある廊下へと駆け出す。
 しかし、それはある意味、擬態だったと言えなくもない。
寂しさを打ち消す為の、あるいは先程の予感を打ち消す為の……





 そしてこの居間に残されたのは、ライダー、彼女一人になっていた。
「サクラ……」
 その後ろ姿を見送った彼女は、再び顔を窓の方へと向けた。
その窓にはもう雨の水滴が多く付いており、もう誰が見ても雨が降っていることが分かるほどの状況になっていた。
「サクラの魔力がかなり乱れてしまっている」
 誰に聞かせるのでもない、ただ自分に言い聞かせる為にそう呟く。
「あの膨大すぎる魔力の制御は今のサクラにはまだ荷が重い。
 感覚が鋭くなり、“予感”が“予知”のレベルにまで達してしまうことによって、不安や恐怖といった感情をより強調させている。
そのせいで、彼女はあのように情緒不安定になってしまっているのでしょうね、恐らくは」
 彼女の異変をライダー自身で考察してみた結果がこのようなことだった。
 過ぎた力は身を滅ぼす――――とでも言えようか。
 確かに、彼女のその魔力のおかげで私はこのように現界していられる。けれど、彼女にとっては爆弾を抱えているも同じなのである。
しかも、その爆弾を捨てることのできない彼女にとって、その重荷からも逃れることは……できない。
「士郎……。貴方は今、何処に居るのですか?」
 窓の向こうの漆黒を見つめながら、ぽつりと呟いた言葉はこの雨にかき消されてしまう。
けれどそんなことにも構わずに、ライダーは続けて言葉を紡ぎだす。
「私はサクラに魔術や魔力の制御に関することを教えることはできます。けれど、彼女からその重荷を取り去ることは出来ない。
それができるは士郎…………、貴方だけなのですよ?」
 その言葉――――それは闇夜に向けたものでもなければ、この降りしきる雨に向けたものでもない。今まだ見えぬ「衛宮士郎」という男に向けたものだった。



 だがその時、ライダーの耳はガタンッという、この場には似つかわしくない音を聴き取っていた。
「……っ、サクラ!?」
 その音のした方へ180°首を回す。すると、そこには、開いた襖に寄りかかるようにした桜の姿があった。
「サクラッ、一体どうし……たん……」
 だが、言葉はそこで途切れてしまった。と言うよりも、それ以上の言葉は無用だったのである。
 輝きのない瞳と青ざめた顔。
それだけ見せられれば、詳細は分からずとも、彼女の心境くらいは容易く把握できてしまったから。
「先輩、もう帰ったって。もう30分も前に店を出てるって」
 桜の震える身体をそっと抱きとめる。
「この雨です。どこか途中で雨宿りしているのかもしれません」
「でも、連絡も何もないなんて……」
「士郎は携帯を持ってはいません。近くに公衆電話がない所なら、どうしようもありません」
「…………」
 ライダーは桜の質問に極めて冷静に答えていった。
それは、自分自身も慌てることで彼女の恐怖心を煽らないため、彼女を極力落ち着かせようとするため。
けれど――
「なんで……?」
「んっ?」

「なんで、ライダーはそんなに落ち着いていられるの!? 先輩のことなんてどうでもいいの!? 自分のこと以外ならどうでもいいのっ!?」

 桜の悲痛な叫びが鼓膜を突く。
 そして、鋭く睨みつけられる。まるで自分の魔眼にも匹敵しそうなくらいに強い眼光を放って。
「サクラ……」
 それで、今の彼女には自分の対応など逆効果でしかなかったことを知った。同時にその想いの強さも。
 しかし、だからこそ、敢えてライダーはその手を振り上げた。

 パシン――――ある意味爽快さすら感じるほどの通った音が響き渡る。
そしてその音が消え去った後に残されたのは、赤くなった頬を呆然と押さえる桜とその前で佇むライダーだった。
「えっ……」
 叩かれた?
痛みはあるのに、その事実を事実として上手く受け入れることが出来ずにいた。
「なんで、私……?」
「すみません、サクラ。暴力を振るってしまったことは謝ります。けれど“叩いた”ことに関しては謝りません」
「…………」
 黙って見つめ返してくる桜。だが、その瞳には既に僅かだが光が戻っているように見えた。
「本来の私たちなら“同調”させることによって、お互いの意思疎通を図ることができます。けれど今のサクラは私も含め、他のあらゆる物を排除しようとしていた。そんなサクラに私の意思を伝えるにはこうするしかなかったのです」
伝わりませんでしたか、私の意思が?」
 桜は一瞬の間、目を丸くし、呆然とした表情でライダーのことを見つめ返し、その後、首を大きく横に振った。
「良かった」
 その答えを受けたライダーは彼女のその赤い頬に手を伸ばし、そっと撫でながら身を引き寄せた。
「確かに私は桜の魔力のおかげでここに居続けることが出来ています。
けれど誤解はしないで欲しい。私は決して“現界していたい”からサクラの側に居るのではないということ。私は“サクラが好きだから”、サクラの側に居るのです」
「ライ……ダー……、ぅん……」
「“士郎のことを心配しない?”――どうしてそんなことがあり得ましょうか? サクラの幸せが“士郎と共に在ること”だということを私は知っているのですから」
「うん、うん……ごめん、ごめんなさい」
「謝る必要はありません。サクラの真剣さは良く伝わりましたし」
「でも、私、ライダーに酷いこと……」
「フフッ、良いんです。そんなことは“些細なこと”に過ぎませんから」
 そして桜は彼女の胸にグッと顔を埋めるのだった。



◇ ◇ ◇



「はっ、はっ、はぁ……」
 宵闇と雨が下りるこの夜の中を疾走する一人の影。
「先輩、何処です、何処に居るんですか?」
 全力で疾走していることによる疲労を降りしきる雨が増長させる。けれど、私は決して足を止めることはなかった。


「待っているだけで良いんですか?」
 そんなライダーの言葉に心動かされ、あの後、先輩を探す為に家を出た。勿論、ライダーも同様である。
 でも、今、私の傍らにライダーの姿はない。二人で手分けをして探すことにしたからである。
 それは、私とライダーは繋がっているから。二人は視界を“共有”することも可能であり、どちらかが先輩を見つけることが出来れば、もう一人にも伝えることが出来るからである。
 そうして、私は深山町を、ライダーは新都を捜索する為に海浜公園にて別れたのだった。

 だが、探し始めてからもうすぐ1時間近い時間が経とうとしている。なのに、二人は一向に『求め人』の姿を見つけることが出来ずにいた。
 また、これだけの時間、この雨の中を走っていれば、もはや傘など何の意味も成さず、私の身体は水を含んだ服の重さのせいでずっしりと重かった。
そして、その傘が私の手から離れ、地面の上に転がっていく。雨風に打たれながら、コロコロと……
そして、それは深山の町の坂の下へと消えていった。
「っ、はっ、あぁ……ふぅ」
 加速して遠ざかっていく傘とは対照的に、私の足の速度はどんどん減速していき、ついにはその歩みを止めてしまっていた。
「先輩。早くその姿を……見せて」
 虚空を見上げ、真正面から数多の型ないモノを顔で受ける。
傘だけでない。この雨の中では、『涙』すら、意味を為さないものでしかなかった。





 ――先輩は、私にとっての“全て”である――

 先輩と出会えたから、私はお爺様のただのあやつり人形でなくなることができた。
確かに、最初はお爺様の言いつけを守っただけ。「衛宮士郎」という人物のことを監視するが為だった。
 だが、それ以上に私は知りたかったのかもしれない。その「衛宮士郎」という人物――――いつかの校庭で見かけたあの人のこと、兄さんが初めて連れて来た友人であるあの人のことを。
 そうして、衛宮家に出入ることになった私は、いつしか本来のの目的を忘れていた。
だって、その家に居る時だけが、私が『私』になれる唯一の拠り所だったから。

 また、先輩が居てくれるから、私は今こうやって生きていることができる。
 私はあの『聖杯戦争』という出来事で取り返しのつかないことをしてしまった。大切な人たちを傷つけ、殺してしまい、さらには、全然無関係の人たちにさえ危害を加えてしまった。
 自分の意思じゃなかったから……なんてことは決して言えない。謝ったからって許されるものでもない。
もしかしたら、本当はは自分の意思でやったことなのかもしれないから。

 そんな私なんて生きているべきではなかった。その前に、私自身、その罪の重さに耐えながら生きることが出来なかった。


 だと言うのに、先輩は私に「生きろ」と言った。いや、違う。私と「生きたい」と言ってくれた。その時、私や姉さん、ライダーの中で、最も死に近かった先輩が、である。
 人は死の窮地に立たされれば、生を強く望むのは必然かもしれない。けれど、先輩の意思はそんな単純なものではなかった。
だって、先輩のその「生きたい」という意思の中に、「私と共に」というモノが入っていたから。
 『死にかけていた』先輩――姉さんが言うには『死んでしまった』先輩が、私たちの前に再び姿を見せた時、先輩は『先輩』ではないモノの形をしていた。『死んでしまった』というなら、「確かにそうだろう」と頷いてしまえるくらいに。
 でも先輩は、そんな姿になってまで、そして今にも消えてしまいそうな命を引きずりながらも、「私と生きたい」と言ってくれたのである。


 嬉しかった――――『先輩』が生きていたことが。

 生きようと思った――――先輩と共に。


 罪の重さとアンリマユの後遺症。
これからの私にどれだけ辛いことが待ち受けているのか、それは明白なことだった。
それでも私が「生きたい」と思えたのは、やはり先輩が居てくれたからなのである。

 ――先輩は、私にとっての“全て”である――





 そんなこと考えていると、私はいつの間にかさっきとは異なる場所に立っていた。
「あっ……れ……?」
 周りには誰も居ない。見えるのは所々に点在する街灯の光のみ。
そんな中、私は独り、傘もささずにその場に立ち尽くしていた。
「ここは……公園? そっか、戻ってきちゃったんだ」
 暗闇と雨が視界を悪くしているとは言え、その見慣れた場所はすぐに分かった。
 新都大橋の手前にある海浜公園。ライダーと別れた場所であり、ライダーとの集合場所にもしている場所だった。
もし一時間経っても先輩が見つからないようなことがあったら、一度ここに集合しようという約束をしていて、その一時間がもうすぐ経過するところだった。
「先輩……」
 愛しい人の名をぽつりと呟いてみるのだけれど、それに答えるものはいなかった。
 当然だ。だって、『誰も居ない』のだから……
 ライダーからも何の連絡も来ないところからして、ライダーも先輩のことをまだ見つけられていないということだろう。
「先輩……先輩……、先輩、先輩、先輩、先輩…………」
 がくりと膝が落ち、水溜りの上に身体が沈む。
 ビチャリ……
髪や肌、服や下着――もう全てが濡れ、汚れてしまっていた。
「あは、アハハハハ――――」
 その姿を見て、私自身を笑う。
「なんて、無様。私には……お似合いですね」
 そう、お似合いだ。穢れた私の側には『誰も居ない』というこの状況。
先輩が側に居てくれないと、私はこんなにも……弱い。
先輩が応えてくれないと、私はこんなにも……、こんなにも……


 泣きたくなる。
 なら、泣けば良い。
 泣いてどうする?
 誰かが同情してくれる?
 
 ……まさか。
 だって、私の側には『誰も居ない』のだから。





「……桜?」
「えっ!?」
 その時の私は、その声を「信じられない」というような驚きの表情を浮かべながら聞いていた。
だって、信じられるはずがない。私を呼んでくれる人など居ないというのに……なのに、
「桜、だよな?」
「ぁ……、あぁ……」
 やっぱり、呼んでる。私のことを呼んでくれている。
 水溜りの上に腰を下ろしてしまっているせいで、身体が上手く回ってくれない。
ギシギシと油を差し忘れた機械のように動きが悪い。加えてこの雨がそれをさらに鈍らせているようにも思えるほどだった。
 パシャ、パシャ――雨の落ちる音に混じり、そんな水溜りを踏みしめる音を立てながら近づいてくる、その人。
 そしてその人が私の真後ろに立つ気配を感じた。
「……っ!?」
 その気配が私をぶるりと震わせるのだが、肩にそっと置かれた彼の手がそれをすぐに止まらせていた。
「先……輩……?」
「やっぱり、桜か!? なんでこんな所で!?」
 先輩は私が振り向くよりも早く、すかさず私の目の前に回りこんでいた。
「あっ」
 辺りには相変わらず、夜と雨のカーテンが交錯している。けれど、そのカーテンすら阻む余地がないほどに先輩の顔が近づいていた。
「あぁ、こんなに濡れて。今日は家で待っててくれって、言ったじゃないか?」
「だって、だって……」
「ん?」
 先輩も傘を持って行っていないせいで、その身体は私と同様にびしょ濡れだ。
肌に張り付く雨に濡れた服の感触。そんな状態の二人が密着することは本来なら不快感しか生み出さないはずなのに、抱きしめられることがとても心地良かった。
「だって、先輩の帰りが遅かったから。連絡はくれないし、こっちからバイト先に連絡しても、もう帰ったって言うし。だから、私……」
「それは……、俺が悪かったよ。ごめん」
「どうしてっ!? 今日は早く帰るって言ってたのに、今まで何処に?」
「それは、その……」
 ようやく少しだけ冷静になれた私は、目の前の先輩の全身を見つめ返す。
 その第一印象は勿論、髪の先からつま先までびしょ濡れである、ということ。けれど、それ以外の違和感も感じた。それは、服が擦り切れ、肌が露出している部分があったことである。
膝、肘――そして、よく見れば、額にも擦ったような傷痕が見受けられた。
「先輩、もしかして……怪我してるんですか?」
「えっ、いや、これは」
 私の言及に対し、すかさず額の傷を隠そうとするのだが、そうする行為自体が「自分が怪我をしている」ということの表れと同じだった。
「やっぱり……、何か、あったんですね?」
「ちょっと、な」
 先輩の語尾が急に弱くなり、問う側と問われる側が途端に逆転してしまっていた。
 あんなにも近かった顔が離れ、私から目を逸らす先輩。そんな彼に一体、これまでの間に何があったのか――私はそれを心配に思わずにはいられなかった。
「ちょっと、何なんですか? 私には言えないようなことなんですか?」
「そういう訳じゃない。けど、桜には余計な心配をかけたくないから」
「心配? やっぱり、私が心配するようなことがあったんですね!?」
 本当に自分が言っているのか、不思議に思ってしまうくらいの激昂が私の口から飛ぶ。
そして、それを先輩はただ俯いて聞くだけだった。
 そんな私の視線と、二人を取り巻く雰囲気に耐え切れなくなったのか、先輩はようやく口を開いて言った。
「ちょっと…………事故ったんだ」
「っ!?」
 突然の言葉に私は短く息を飲んだ。それと同時に、身の凍る思いすら感じていた。
 そして、私が感じていた「嫌な予感」はこれだったのだ、と複雑な思いで実感させられもした。
「でも、大丈夫……だったんですよね?」
「ああ、それは勿論だ。そうじゃなきゃ、今こうしていられないよ」

「やめてくださいっ!」
 その直後、私は先輩の身体に再度しがみついてた。
「桜?」
 突然、弾けたようにしがみついた私にオロオロとうろたえている先輩。
「やめて、ください。そんな悲しいことを言うのは……」
 例え冗談だったとしても、そんなことを言って欲しくなかった。
「私の前に居られない」――――そんな風な言葉を。
もしそれが現実になったら、私はもう何も出来なくなってしまうから。だから……
「居てください、私の側にずっと。“いなくなる”なんて、言わないで下さい」
「あぁ、俺はいるよ。ずっと桜の側にいる。いなくなりなんて、絶対しないから。だから……ごめんな、桜?」
「……はい」
 そうして、私たちはお互いがお互いを想いながら、強くその身体を抱きしめあった。
冬も近いこの季節とこの天候――――それにも関わらず、私たちの身体はとても温かかった。





「それで、先輩? 怪我の方は本当に大丈夫なんですか?」
「ああ。所々、身体を擦りむいただけで、他は特に問題ないよ」
 温かかった……とは言え、いつまでも雨風に晒されている訳にもいかなかった私たちは、とりあえず屋根のある所まで避難していた。
拭くものもなければ、乾かす場所も無い。まぁ、例えあったとしても、この雨ではそれも難しいけれど。
 そんな状態の私たちはこの屋根のある休憩所のベンチで肩を寄せ合いながら座っていた。
「何があったのか、詳しく聞いても良いですか?」
「構わないよ。
そうだな……まず俺がコペンハーゲンを出たのが、大体7時半くらいだったと思う。 その後、俺はそのまま家に帰るつもりはなかったんだ。どうしても寄りたい所があったから」
「寄りたい所、ですか?」
「そう。お店……なんだけどね、そこの営業時間が8時までなんだ。
でも、そう遠い所でもないし、そこで買うものももう決まっていたから、30分もあれば十分に間に合う……そう思ってた」
「でも、今はもう9時過ぎ……」
 私たちが先輩を探しに家を出たのが8時過ぎ。そして、今までずっと探していた時間がおよそ1時間。
つまり、先輩が行こうとしていたお店の営業時間である8時を、裕に一時間以上も経過しているのである。
「まぁ、そうなんだけど、その前にアクシデントがあったんだ。
 最初は雨。その店に行く途中でとても強い雨に降られたんだ。傘を持っていかなかったせいで、あっという間にずぶ濡れにさせられていた。
 そして次が問題の……事故だ」
 事故――何もなかったとは言え、その言葉だけで嫌な気分にさせられる。私は先輩の隣で、ぐっとその手を握りしめた。
 震える私。それは寒さと、恐怖のせい。
けれど、そんな私の様子に気付いた先輩はその手の上に、そっと自分の手を重ね合わせてくれた。
「途中、厄介な信号にひっかかっちゃってね。時間に余裕が無かったこと、雨に打たれたこと……そういったことのせいで、普段気にするはずもない信号待ちということに妙な苛立ちを覚えてしまっていたんだと思う。
そのせいで俺は、信号が変わるのと同時に左右も確認しないで飛び出してしまったんだ」
「もしかして、それで?」
「ああ。歩行者側の信号は変わっていたから俺が悪いって訳じゃない。けど、左右を確認せずに飛び出してしまったこと、そしてこの雨は車にも影響を与えていることを全く考えなかったこと……そんな俺の過失が原因だと言えないこともないと思う。
 そして、車のライトが眼前に広がった時は、正直言って“やばい”と思った。けど、俺はそう思った瞬間、思いっきり横に跳躍していたんだ。
おかげでギリギリで衝突は避けられたのだけれど、その後先考えない跳躍のせいで地面や電柱に身体を思いっきり強打されたけどね」
 ハハ……と苦笑いする先輩ではあったが、転がったことでここまで服が破れてしまうところを見ると、その跳躍の勢いと強打の激しさがありありと見て取れた。
「その後、その車の運転手と色々話して、『自分は大丈夫だから』ってその場を去ろうとしたんだけど、その運転手の人が律儀な人でね……連絡先の交換とかバッチリすることになって、気付いたらもう8時を過ぎてたよ」
「そうだったんですか。でも、それなら尚更遅くなるはずがないじゃないですか? お店はもう終わっちゃったんですから」
 だが、先輩は静かに首を横に振った。
「別に普通の買い物だったら、すぐに諦めてたさ。でも、今日の買い物は特別だったんだ。出来るだけ早く買いたいものだったから。
だから、給料が入った今日、どうしても買ってしまいたかったんだ。
 そうして俺はその後、別のお店も色々と探し回ったんだ。そしたら、こんな時間になってしまった……という訳だ」
 「買いたいものがある」――そんなことを嬉々として語る先輩の姿はとても珍しいものだった。そして、普段から食料品や日用雑貨といったものしか買い物しかしない先輩が、そこまでして欲しいもの、しかも頑張って稼いだお給料をはたいてまで欲しいもの――――それには私も興味を持たないはずがなかった。
「それで、先輩が欲しかったものは……買えたんですか?」
 もはや好奇心によるそんな問い――それに対し、先輩はにこりと微笑んで応えた。当然、その笑みは『YES』という答えの表れなのだろう。
 すると先輩は急に立ち上がり、私に背中を向けたまま、ポケットの中に手を入れた。そして、その手を突っ込んだままの状態で先輩は止まってしまった。
「先輩? どうかしましたか?」
「似てるな、って思って」
「……え?」
「あの時も、こんな風に雨が降ってたよな?」
 一歩、二歩と足を進め、先輩は屋根のある場所から出て行ったしまった。そして、手のひらを上に向け、雨が落ちるのを感じていた。
別にそんなことをしなくても、雨などいくらでも降っているというのに……

 先輩の言う『あの時』とはいつのことなのだろう?
思い出せない。いや、思い出したくないのだろう……『あの時』のことなんて。
 でも、『あの時』のことは忘れることなく、そして色褪せることなく、鮮明に私の中に残っている。

 だって、嫌な思い出である以上に……嬉しかったから。
駄目なことだと分かっていても、先輩が私を抱きしめてくれたことが、想ってくれたことが本当に嬉しかったから。

「今回は探す側と探される側が逆になってたけどな。でも、『あの時』言った言葉は今回だって変わらない」
 そっと……私も腰を上げる。
そして、先輩に見習い、一歩、二歩と雨の中へ、先輩の側へと歩み寄っていった。
「せん、ぱい」
 とても大きくて、広い先輩の背中。それが私の目の前いっぱいに広がる。その中へすぐにでも飛び込んでしまいたくなったけれど、私はそれをグッと抑えていた。

 先輩が私の方へとくるりと回る。
 お互い目の前に立つ、私と先輩。その先輩の目が私を釘付けにする。
 そして、先輩の唇が……動いた。

「桜に受け取って欲しいものがあるんだ」
「…………」
 今までポケットの中に入れていた腕がゴソリと動く。
 そして、そこに隠れていた手がこの雨降る夜の中に姿を現した――――そこに何かを包みながら。
「桜……これを、お前に受け取って欲しい」
 差し出された手。その指に包み込まれるように在る立方体の箱。
先輩のもう片方の手がその箱に触れ、そして蓋をゆっくりと開いていった。

「あ――――――」
 その中にあったもの。
それは、夜の中の街灯よりも、星よりも、月よりも……何よりも美しく輝いて見えた、一粒の光。
「先輩、これって……」
 声が震えているのが自分でもはっきりと分かる。
だって、これは……、『私に』と向けられたこれは……



「結婚しよう、桜……」

 指輪だったのだ。透き通る美しさを持つダイヤモンドを湛えた、婚約指輪だったのだ。

「これからもずっと、俺は桜のことを守っていきたい。桜の『正義の味方』で居続けたいんだ」

 あぁ……、なんてこと。
先輩はこれを買うために、自分の時間を削ってまで懸命に働いて、そして今もこれを買うために危険な目にもあった。
 『あの時』思った通りになってしまった。
『きっと、先輩を傷つける』――――その言葉の通り、先輩を傷つけてしまった。
 やっぱり私は先輩と居るべきではない。そう何度も何度も思い続けてきた。今だってそうだ。
でも、それでも私は……


 先輩と一緒にいたい。

 だって、先輩は本当に『正義の味方』だから。
今だって、先輩は私を押し潰されそうな不安と恐怖から救ってくれた。
 でも、それが「先輩の重荷になっているのでは?」思ってしまうこともある。

 自分勝手だって、私だって分かってる。
でも、それでも私は……そう思ってしまうんだ。

だから、私も答えを返した。先輩の想いに対して。

「……はい」
 そんなたった2文字を。
けれど、私にとってはこれ以上ない2文字。
 
 そして私は、先輩の胸の中で――――――泣いた。



◇ ◇ ◇



 そんな二人の様子を、二人に気付かれないほど遠くで見守っていた一つの影が、新都大橋の上にあった。
距離にして数百mは軽くあるであろう。だと言うのに、その様子をしっかりと見ることができたのは、その人物の『目』のおかげだった。
 そんな『彼女』が橋の手すりにそっと寄りかかる。
そして呟かれた一言……

「良かったですね、サクラ……」




 そして、雨は――――上がった。







 
END







◇あとがき◇

 前作の凛短編「たまには〜」を書いている時に思い浮かんだ作品。なんで中核のネタがかぶってます。
正直に白状すると、プロポーズシーンが書きたかっただけだったり……
 ちなみに、今回の話の舞台は聖杯戦争から2年……にはちょっとだけ足りないおよそ11月頃のお話。つまり、士郎(一年休学後)と桜が3年生のお話。
 この後、あの幸せな本編の『エピローグ』へ繋がったらなぁ……という思いで書きました。

 

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