「しっかりしなさい、士郎! 貴方はもうすぐ…………」
 藤ねぇにもらった電話。そして聞かされた言葉。

 ついに来た。来てしまったんだ――今日という日が。

 受話器を叩きつけるかのように元に戻すと、俺は即座に身を翻し、駆け出していた。
(着替えてなんていられるか!)
 俺は仕事の服装のまま、店の入り口に向かって全速力で走る。
「ちょ、ちょっと、エミヤん!? 仕事中に何処行くの!?」
 まだ少ないながらも客が入っているフロアを堂々と駆け抜けていく俺を、そこに居たネコさんが引きとめる。
しかし、一分一秒すら惜しく感じている今では、立ち止まることすら面倒だ。
 けれど、流石にそういう訳にもいかない。実際のところ、こうやって抜け出そうとしていることすらご法度だ。最悪、クビを切られても文句は言えない行動を俺は今しようとしている。
 しかし、それでも……、そう思った俺は、ネコさんの方を振り向いて言った。
「すみません。イリヤが――――」
 あまりの慌て具合、そして緊張により、言葉をそこで噛んでしまった。
「イリヤちゃんが?」
 ネコさんは藤ねぇの友人であり、俺がここに働くようになってからはウチに出入りすることも以前に比べれば随分多くなった。だから、イリヤのことも知っているし、そのイリヤが今どういう状況にあるのかも知っていた。
「…………」
 言葉が続かない代わりに目で訴える。
そうしたら、案の定にネコさんの激昂が飛んできた。
「バカッ! 貴方、今がどういう状況だか分かってるの!?」
 客がいることなどお構いなしの叫び声。辺りで優雅にもワインなど楽しんでいた人たちもビックリだ。
 だが、怒られたからと言って、俺は止まろうとも思わなければ、止まるつもりもなかった。
「すみません、ネコさん。それでも俺は――」
「こんな所で何をノンビリしてるのっ! 早く行ってやりなさい!!」
「えっ……」
 しかし、彼女から発せられたのはそんな言葉。俺を後押ししてくれる言葉だった。
「ネコ……さん……」
「うんっ!」
 ビシッと親指を突き立てる。
「……ありがとう。行ってきます!」
 それに勇気付けられた俺は、またこの体を翻し、冷房の効いていない暑い夏の空の下へと駆け出していった。

 そしてその場に残されたネコさんは、その背中に向かって呟いた。
「しっかりしなさい、エミヤん。貴方はもうすぐ『パパ』になるんでしょ?」
 それは藤ねぇが言った言葉と全く同じもの。


 ……そう。ついに来た、今日という日が。ついに俺が『父親』になる日が。







夏に降る『雪』
-life-







 一部、信号無視などもしながらに急いだ俺。
正直、もう肩で息はしてるし、足もガクガク。本当ならもう一歩だって歩けやしない。
 けれど、俺は走った。とにかく走った。
翌日の筋肉痛?――そんなことどうして気にすることがあろうか?
今日という日を迎えられるのであれば、明日の苦痛など気にならなかった。
 そして俺は、目的地の冬木中央病院が見えると、さらに速度を上げた。
火事場の馬鹿力というものに近い。流れ行く風景が速い。まるで俺の脚が俺のでないようだ。
 ようやく着いたこの場所。その入り口でも止まることなく俺はただ駆けた。横目に救急車が止まっているのを確認しつつ……

「はぁ、はっ……あぁ、はぁぁ……」
 中に入った所でようやくその歩みを止めた俺は、辺り360°をぐるぐると見渡す。
そこには相変わらずの特有の臭いとお年寄りの方々の姿。
そしてそんな彼らが、汗だくで鬼のような形相をした俺を見て、驚いていた。
「あ、あの……、すみませんっ!」
 埒があかなくなった俺は、ちょうど傍を通りかかった看護婦の手を掴む。
「はい、何でしょ――――ひっ!?」
 べっとりと汗で濡れた手、そしてこの形相の俺に引き止められたこの看護婦は不運だったかもしれない。周りにいる患者以上に驚き……と言うより、怯えられた。
だが、今はそんなことすら構ってられないのだ。
「本当にすみません。イリヤスフィールという女の子がここに運ばれてきているはずなんですが?」
「は、はひっ? ぁ……、『イリヤスフィール』さん、ですか?」
 そして手に持つ書類をペラペラとめくるのだが、果たしてついさっき運ばれてきたはずの情報まで載っているのだろうか?と疑問に思ってしまう。
いや、俺の様子に驚いて、気が動転してしまっているのだろう。

 ……などと考えていたとき、慌しい声が遠くから聞こえてきた。

「イリヤちゃん、しっかり! 頑張るのよ、士郎ももうすぐ来てくれるはずだから」
「う、うん。私……私、頑張っ……て……」

(藤ねぇとイリヤの声だ!)
 その声を耳にすると、俺は再び駆け出していた。
「えぇと、イリヤスフィ…………、あ、ちょっと!? 病院では走ってはいけません!」
 そんな看護婦の声など、ただの雑音にしか聞こえないほどに俺の意識は別の方にあった。
(イリヤ、イリヤ、イリヤイリヤイリヤイリヤッ!)
 走るのは禁止のはずの病院に響き渡る俺の足音。そして、近づいてくるいくつもの慌しい足音。
 そして、俺はようやく見つけた。ようやく――――たどり着いたのだ。
幾人かの医師や看護婦、そして藤ねぇが囲んでいるその中……、そこに『彼女』は居た。

「イリヤ――ッ!」
 その大きな叫び声にその集団はピタリと足を止め、こちらを振り返る。
「シ……ロウ……?」
 仰向きに台に乗せられて運ばれている最中のイリヤの姿が、確かにそこにあった。
「イリヤ……」
 首を横に倒し、俺を見つめてくるイリヤ。
その顔はとても辛そうで、汗だくの俺以上に汗でいっぱいだった。
そんな、とても辛いだろう、きついだろうと言うのに、彼女は俺に――満面の笑みを向けてくれた。

 その一瞬の後、再び台車がガラガラと動き出す。そして俺もその動きについていくように、足を動かした。
「士郎……、ここに」
 その集団に追いつくと、藤ねぇが一歩退き、俺のために場所を空けてくれた。勿論そこは、イリヤのすぐ隣。
「シロウ……」
 はかなく呟く彼女の手をそっと……けれど、強く握り締める。
「大丈夫だ。俺がついてる」
 まるでディープキスのように、握った手を、何度も撫で、そして何度も握りなおす。
 
 こういう時、男は本当にずるいと思う。
女が、それも大切な女がこんなに苦しんでいると言うのに、俺は手を握ってやることしかできない。せめて今、そしてこれから彼女が感じるであろう苦痛の半分でも俺が受けてあげられれば……そんな風に思ってしまうのだ。
 でも、何故なのだろう?
彼女は俺にそんな苦痛の表情を見せてくれないんだ。
自分が大変だというのに、何にもしていない俺の方を心配してくれる。その温かい微笑を見せて。
 彼女がそんなだから、俺は…………俺は、こうやって手を握ってやることしかできないじゃないかっ!

「シロウ、私……、私、頑張るから。頑張ってシロウの子供産んでみせるから」
 こんな小さな身体なのに、普通の人間とは少し異なる身体なのに……、なのに、イリヤはこんなにも懸命に頑張っている。
俺のため、生まれてくる子供のため――――そして、自分のために。
「ああ、頑張れ。待ってるから……、ここでずっと待ってるから、『おまえたち』を!」
「う、うんっ。待ってて、『わたしたち』……必ず帰ってくるから」

「じゃあ、約束だ。約束のゆびきりをしよう」
「ゆび……きり……?」
「知らないか? こうやってお互いの小指と小指を絡めてな……」
 動けない彼女の手をとって、俺の小指と彼女の小指を絡めてやる。しっかりと、決して離れないように。
「それでこう言って、指をきるんだ。
『ゆーびきーり、げーんまん。うーそつーいたら、はーりせーんぼん、のーます。ゆーびきった』ってね」
「フフ……、痛そうだね? 嘘ついたら」
「さらに言うとな、この『指きり』っていうのは、日本の女の人は実際に自分の小指を切り落としたらしい」
「ど、どうしてっ?」
「そんな痛い思いまでしても、相手の男の人といたい……そんな誓いの儀式だったらしい。それでもしその男の人が嘘でもつこうものなら…………って訳さ」
「なんか、怖いね?」
 明るい表情を崩してしまうイリヤ。だが、俺はもう片方の手で彼女の頭をそっと撫でてやった。
「見方によるさ。『嘘をついたら』なんてことは考えるべきじゃないんだ。考えなければならないことは『約束を守る』こと。ただそれだけなんだ。
 そしてイリヤはこれからそんな苦しい思いをすることになると思う。けれどそれは『誓い』の儀式なんだ。俺のことをどれだけ想ってくれてるか……そんな、ね?」
「シロウ…………うん、わかった」
 周りを囲む医師たちは依然として緊迫した表情のままである。
けれど、そんな人たちは蚊帳の外に、俺たち二人の間だけに穏やかで優しい時間が流れていた。
「じゃあ、いくぞ。準備はいいか?」
「だいじょぶ」
「よしっ!」



『ゆーびきーり、げんまん』
 微笑む少女。『切嗣』の本当の子供。そして、俺の――――妻。

『うーそつーいたら』
 「誰かのために」――そう思い続けてきた俺が、初めて見つけた『俺自身』の幸せ。

『はーりせーんぼーん、のーます』
 『あいつ』は幸せだっただろうか? 自分の誓いを果たして……

 俺は見つけたよ……俺が本当に守りたいものを。

 なぁ、セイバー?


『ゆーびきった』 



「はい、下がって! ここからは入らないでください!」
 いつの間にか迫っていた分娩室の扉。それがまるで魔物の口のようにガバッと左右に開かれた。
 イリヤが離れていく。イリヤがその口に飲み込まれていく。
「あ……」
 だが、俺たちはここから先には進めない。進みたいのに、足を止めざるを得なかった。それはとても……つらかった。

 しかしその時、俺は一人立ち止まった看護婦に声をかけられていた。
「ご主人ですか?」 
「えっ、あ……」
 『ご主人』――――俺とイリヤは何も結婚している訳ではない。だが、そんなのは形式上のことに過ぎない。
「イリヤは『妻』なのか?」と問われれば、俺はまず間違いなく「YES」と答えるだろう。
 だから、俺はその看護婦の問いには自信を持って、首を縦に振った。
「はい、そうです」と。
 それを聞いて微笑んだ彼女は、俺に向かってさらに話を続けた。
「ご主人お一人であれば、一緒に分娩室に入って立ち会うことができるのですが、宜しければいかがですか?」
「立ち……会う……?」
 それはつまり、俺たちの子供が生まれるその瞬間をこの目で見れるということ。そして、苦しむイリヤの傍でずっと声をかけ続けてやることができるということ。
とても魅力的な誘いである。また、一生に一度の貴重な経験にもなると思う。
 でも、俺は……
「いえ、俺は待っています。それがイリヤとの『約束』ですから」
「はい?」
「……いえ、なんでもありません。それより、俺たちはこれから何処で待っていればいいのでしょう?」
「ああ、はい。それでしたら隣の分娩待機室が空いてますのでそちらでお待ちください。ただ、本日面会できるのはご主人だけで他の方の面会はご遠慮いただきますのでご了承ください」
「ってことは、彼女はイリヤたちに面会できないってことですか?」
 そう言って、俺の後ろで控えている藤ねぇの方を見やる……のだが、思いのほか、藤ねぇの表情は明るかった。
「藤ねぇ?」
「まぁ、仕方ないじゃない。そういうきまりなんだから」
「でも……」
 でも、そんなの悲しすぎるじゃないか。ある意味、俺以上にイリヤのことを心配してくれているというのに。
「さ、さ。早くその分娩待機室って所に行きましょう」
「あ、では、ご案内しますので……」
「すみません」
「ちょ、待っ……、藤ねぇ!?」
 そして俺の手を強引に引っ張るようにして、藤ねぇはその看護婦の後へ着いていった。



◇ ◇ ◇



 そして、その分娩待機室という所に通された俺たちだったが、そこでの会話は何もなかった。
 この壁の向こうで今、イリヤが頑張っている……そう思うと、俺はただ祈る以外の術を知らなかったのだ。
「イリヤ……」
 俺のこの小指にはまだ、彼女の熱いくらいのぬくもりが残っている。俺はその小指をもう片方の手で握り締め、胸元に抱きしめた。
「くそぉ……、俺は本当にイリヤの助けになれてやれたのだろうか?」
 この言葉を呟いて、そして後悔しそうになる。やはり分娩室に一緒に入って、彼女の傍に居てやれば良かったのではないか?と。
「あぁ、もぅ……っ!」
 頭を掻き毟る。 
待つ側がこんなにつらいものだなんて……思ってもみなかったから。

「……士郎」
 そんな時、俺の肩をそっと抱くように手が回された。
「藤……ねぇ……」
 俺の不安を鎮めるかのような、そんな柔らかなぬくもりが俺を包む。
「良く頑張ったね、士郎。偉かったわよ?」
「藤ねぇ、俺は……、俺はっ!」
 猛る感情。藤ねぇの手を振り解こうとする。
けれど藤ねぇは強引に俺の頭を引き寄せ、そして撫でてくれた。その手は本当に優しかった……心地良かった。
 だから、埋もれてしまいそうになる。藤ねぇの優しさに。イリヤの辛さを忘れて……
「アハハ……、お姉ちゃん、こんな歳だけど結婚とか出産の経験なんてないから、士郎に何て言ってあげたらいいのか分からない。イリヤちゃんにだって何も言ってあげられなかったのよ」
「藤ねぇ?」
「士郎がここに来る前までずっとイリヤちゃんと一緒に居たんだけどね、私が何を言っても『シロウ、シロウ……』の一点張り。それも、とっても苦しそうな顔して。
 だけどね、士郎が来た途端に微笑んだの。本当に嬉しそうに……微笑んだのっ」
 俺の肩を抱く手に力がこもる。それは、指が俺の肌に食い込むくらいに強く。
「覚えてる? 士郎は半年前、この病院の屋上でこう言ったよね?『俺はイリヤが居てくれるだけで……』って。
彼女にとってもそうなのよ。今の彼女にとって欲しかったものは、他の誰かからもらう激励の言葉でも、優しくされることでもない。
 ただ『士郎が居てくれるだけ』……それだけで十分だったのよ」
「でも、そんなこと……」

「間に合ったじゃない?」
「……えっ?」
「士郎だって、こんなに汗だくになるまで一生懸命走ってきた。そして間に合ったんじゃない……この時に、この瞬間に」
 撫でてくれていた彼女の手がゆっくりと下に下がり、俺の額を拭ってくれる。自分の手が汚くなるのもお構いなしに、だ。
そしてそのひんやりとした手は、火照った俺の肌にはやはり心地良いものだった。
 けれど、今度はその優しさに埋もれてしまおうなんて思わなかった。
 
 約束したから、『指きり』したから。「俺は待っている」と。

 だから俺は待っていよう、イリヤのことを。
だってそれは、藤ねぇにも他の誰にもできない、俺だけができることなのだから。
 『指きり』は約束を破った後のことを考えてするものじゃない。『約束を守る』ためにするものなのだから――

「サンキュ、藤ねぇ。なんか……本当の『お姉さん』みたいだった」
「ムッ。なら、今まで私のことを何だと思ってたのよぉ!」
「しぃーっ! 『病院ではお静かに』だぞ、藤ねぇ?」
「む……、むぅぅ……」
「ハハッ、やっぱり藤ねぇは藤ねぇだよな」

 今だけ、この数言だけ交わした一瞬だけ、俺はイリヤのことを忘れて――――笑うことにした。





「うあ、ぅゥウぁーーーーっ!!」

 そんな叫び声が壁一枚を突き抜けてきたのは、イリヤがここに運び込まれてから、実に6時間以上も経過した時のことだった。
「イリヤッ!?」
 その声に俺は飛び上がっていた。座っていた大きな長椅子を吹き飛ばすかのような勢いで。
「士郎、落ち着いて」
「だって、イリヤが……、イリヤが……っ!!」
 声がした方の壁を指差しながら叫ぶ。さらにはその壁に近寄り、壁を叩こうとさえしようとしてしまっていた。
「ちょ、ちょっと、士郎ってば。駄目だって、そんなことしちゃ……」
「でも、今のイリヤの声――あんなに苦しそうで」
 イリヤの苦悶の声はこの部屋に入った時点から聞こえていた。けれど、今のは一際大きかったのだ。

「うぅ、ううぅぅっ……くぅゥ!」

「!?」
 そして聞こえてくる叫び声は止まることを知らなくなっていた。
しかもそれは、断絶することのないだけでなく、回を増す毎に大きくなっていく。
「あぁ、ああ……」
 もう聞きたくない。耳を塞ぎたい。
 でも……、逃げたくない。
「頑張れっ、頑張れ……イリヤ――ッ!」
 そうしたら俺は、いつの間にか大声で叫んでいた。
「士郎?」
 俺の突然の叫び声に、唖然としてしまう藤ねぇ。
けれど、そんな藤ねぇのことなど気にならないほどに俺は叫び続けた。とにかく大声で、イリヤの苦痛の声にも負けないくらいの声で。
「イリヤ、頑張れ! 頑張れ…………、頑……張れ」
 だが、その声はどこか空しくこの部屋に響き渡る。だから、その空しさすら吹き飛ばそうと余計に大声を出すのだが、それがまた余計に空しくなっていってるような気もしていた。
「くそ……、頑張れ、イリヤ――、イリ――――」

「頑張れぇ!!」

「え……」
 背中から俺のよりもさらに大きな声。
「頑張れ! イリヤちゃん、頑張れ――っ!!」
「藤ねぇ……」
 藤ねぇも後押ししてくれている。俺もそれを受け、一旦消えかけた声を再び張り上げた。
 頑張れ、頑張れ、頑張れ――――喉が潰れても構わない。そんな思いで俺たちはとにかく叫び続けた。



「……っん、はぁ……」
 10分、20分――――、そしておよそ一時間叫び続けたところで、ついに息が切れてしまった。
「はぁ、はぁ、はっ……」
 藤ねぇの隣で喉を押さえながら俯いてしまう。
 そして聞こえるのは、俺と藤ねぇのそんな呼吸の音……だけ。
「えっ? イリヤの声が……聞こえない?」
 さっきまで俺たちの耳に痛いくらい飛び込んできた彼女の声がいつの間にか消えていた。

 ……何故?
 出産が終わった?
なら何故、赤ちゃんの泣き声が聞こえてこない?
生まれたばかりの赤ちゃんが泣かないっていうのは、確か良くないことだったはず。
 
 ようやくイリヤの苦痛の声が止んだというのに、何でこんなに苦しいんだ?
「どうしたんだよ、イリヤ!? イリヤッ!?」
 ついにその壁を叩いてしまう。俺たちを隔てているそれをぶち壊すくらいに。それも拳だけじゃない。自分の頭すらそこに打ちつける。
 ピチャリ――その拳から、額から真っ赤な血が飛び散り、部屋の白い壁を汚す。
 そしてそんな俺の様子に気付いた藤ねぇが後ろから止めにかかった。
「やめなさい、士郎! そんなことしたって……」
 胴回りを大きく掴まれ、俺を壁から遠ざけようとする。
「くそぉ……」
 頭を壁にぶつけたままの状態で固まる。そしてそのままズルリと力なく肩を落とすと、額から流れる血が縦に跡を残した。
「ほら、士郎。これで早く傷を押さえて……」
 俺の肩越しにそっと差し出されるのはハンカチ。だが、俺はそれを振り払っていた。
「ぁ……」
 ひらひらと、藤ねぇの黄色と黒色模様のハンカチが俺たちの足元に落ちる。そこには僅かに、俺の拳から流れ出た赤色が混じっていた。
それで仕方なく俺から手を離した藤ねぇがそれを拾おうと腰を下ろす。
「こら、傷をそのままにしておいたらばい菌が入っ――――」
「藤ねぇ、待った! ちょっとそのままで……」
「ど、どうしたの?」
 そのちょうど中腰の状態で固まる藤ねぇをよそに、俺はまさに目の前にある壁面……その向こうに意識を集中した。
「しっ、静かに!」
「――――」
 やはり何も聞こえない。イリヤの声も、赤ちゃんの声も……
気のせいだったのだろうか? 今一瞬、この壁の向こうで俺は何かを感じたのだが……

「……、…………」

 いや、間違いない。これは何かの息遣い……、まるで『産声』のような。
「やっぱりだ。藤ねぇにも聞こえないか? この……」
 その時、それは、『確か』なものとなって俺の耳に飛び込んできた。

「……ぁ、おぎゃぁ……、ぉ……」

 あぁ、なんて――――

「……全く、うるさいわよ! もうあんたたちもいい大人なんだから、もう少し静かに待ってられないの!?」
 分娩室に繋がる扉がバタンと大きな音を立てて開かれると、俺や藤ねぇの歳の倍もありそうなおばちゃん……いやいや、助産婦さんが現れた。
「あ、あの……、イリヤはっ!?」
 その『おばちゃん』と真正面から真剣に見つめあう。だがその瞳はすぐにアーチ状に形を変えていた。
「あぁ、本当に頑張ったよ、あの娘は。あんな小っこい身体でねぇ」
「そ、それじゃあ、赤ちゃんはっ!?」
「胎内から出てきてすぐに泣きださなかったのにはちょっと驚いたけど、もう大丈夫よ。ホントに元気の良い『女の子』だよ」
 そのおばちゃんの言葉を証明するかのように、さっきまであんなに大人しかった赤ちゃんがものすごい声で泣き出していた。
「あ、ぁあ……」
 何だろう? 今の俺、滅茶苦茶ほっとしてる。こんなに穏やかな気持ちでいられるのは、もしかしたら生まれて初めてのことかもしれない。
俺は胸を撫で下ろし、一呼吸置いてからまたそのおばちゃんの方を見上げた。
「……で、俺は『彼女たち』に今から会えるんですよね?」
「あぁ、あんたが旦那だね? 今は赤ちゃんを産湯で洗ったり、奥さんの方の簡単な事後手術なんかの最中だから、もうちょっとだけ待ってて頂戴な」
「……そう、ですか」
 「今すぐ飛んで行きたいのに」……そう悔しく思いながらも、イリヤと『娘』が無事だったことにものすごく安堵し、身体中から一気に気が抜けてしまった。
「そうですか……良かった。本当に良かった。ハハッ……ハハハハハー―ー―!」
 ずりずりと壁を伝いながら腰を下ろしていき、床にへたり込んでしまった。そしてその場にうずくまる。
「士郎……」
 そんな俺を見下ろす藤ねぇの表情はとても優しかった。そして俺の傍に一緒に腰を下ろすと、落ちたハンカチの汚れを払ってから、俺の額にそっと当てた。
「おめでとう、士郎」
「……ありがとう、藤ねぇ」
 そこから流れ出す血は予想以上に多く、じわりとハンカチに大きな跡をつくっていた。
でもそれは、俺の今の溢れる感情の表れだったのかもしれない……




 その事後の処置とやらが終わったという報告を受け、俺はついに分娩室への入室を許された。
待望の再会と初対面に俺の心臓は口から飛び出そうなほどに緊張していた。
 さっきのおばちゃんが分娩室への扉を開き、俺を招きいれようとする。のだが、いざとなってみると、なかなか足が前に進んでくれなかった。
そんな俺の様子を見て、おばちゃんは「これから『パパ』になる者がそれじゃあねぇ……」などと苦笑混じりに冗談を言う。…………冗談じゃないのかもしれないけど。
 その時、俺の背中にぽんと押されるような感触。そのおかげで進まなかった足が2、3歩前に出ていた。
「早く行ってきなさいよ。じゃなきゃ、士郎の代わりに私が行っちゃうんだから」
 穏やかな笑みを浮かべながらそう言う藤ねぇに、俺は「コクン」と頷き返してからこの足を今度はしっかりと前に踏み出した。
 一歩、二歩、三歩――――徐々に迫ってくる入り口。その距離に反比例するように俺の鼓動は高まっていく。
 そしてついに入り口の境界線の前に立つ。正直、今はその足元しか見ておらず、部屋の中の様子はまだ見ていない。
 ……目をつぶる。そして大きすぎるくらいの深呼吸を一度ついてから、俺はその境界線を――――越えた。

 「針」とした空気。
変わらず俯いたままの俺に、そこにいる人々の視線が突き刺さるようだ。
 その時、バタンと俺のすぐ後方でたった音にビクリと身体を震わせる。おばちゃんが後ろ手に扉を閉めたのだろう。
(はぁ、はぁ、はぁ――――)
 密室になったこの部屋の空気が嫌に息苦しい。
そして俺はその息苦しさに、呼吸するために水面に顔を出すように、俺は顔を持ち上げた。

「――――――っ!!」
 その瞬間、まるでその時を待っていたかのような拍手が巻き起こった。それは勿論、俺を迎えるための。
「あ……」
 顔を上げて、初めて見たこの部屋の光景。
そこには5、6人の医師や看護婦。その中心の分娩台と、看護婦の腕に抱かれている――――赤ちゃん。
「イリヤッ!!」
 それを見るや否や、俺はイリヤとその赤ちゃんの下に駆け出していた。こんな狭い部屋だと言うのに、だ。
「こら、走っちゃいかん!」
 そんな制止の声など耳に入らなかった。
 分娩台の周りを取り巻く彼らを払うようにしてその中心へと進む。
「イリヤ……」
 そこには確かにイリヤが横たわっていた。
「……ぁ、シロウ」
 しかもちゃんと俺の名を呼んでくれている。
「イリヤ、頑張った。本当に良く頑張ったな……」
 俺は途端に破顔してしまった、と思う。それくらいにイリヤのその顔を見た時の心境は、語ることのできないものだったのだ。
 彼女の手を取り、そしてその場に跪く。その手は汗でびっしょりで、よく見れば、彼女の顔も汗まみれで、顔色もいつもよりさらに白かった。
その様子を見て、俺はさっきのおばちゃんの言葉を思い出す。
 『あぁ、本当に頑張ったよ、あの娘は。あんな小っこい身体でねぇ』
 本当にその通りだ。こんな身体で本当に良く――

「はい、お父さん」
 そう言って横から近づいてきた看護婦の腕に抱かれているもの。それは赤ちゃん。俺の……俺たちの、子供。
「この子が俺たちの……」
 そっと立ち上がり、そしてその看護婦から赤ちゃんを俺の腕に渡された。
「……子供なんだな」
 とても小さい。……当たり前だ、赤ちゃんなんだから。けれど、重い。
「体重は3468gです。何も問題のない、元気なお子さんですよ」
 そんな平均以上の体重の赤ちゃん。それがあのイリヤから生まれたというのだから驚きだ。
 その重さを感じながら、俺はこの子をじっと見つめる。
 赤ちゃんという名に相応しく、顔は本当に赤い。そして目もまだ開いていない。まるで猿のようで、他の人が見れば「不細工」と言うかもしれない。俺もテレビかなにかで生まれたての赤ちゃんを見てもさして「可愛い」などと思ったことはない。
けれど、今、目の前にいるこの子は本当に可愛かったのだ。自分の子というのが、これほどまでに可愛いものだなんて……それくらい言えるほど。
 また、この赤ちゃんを見て誰もが思うことが一点あった。
 それは『髪』――まだ産毛程度で少なくて色も薄いのだけど、その『色』が『白』かったのだ。
髪の毛の色が白。それはまさしくイリヤの子供であることのなによりの証拠でもあった。
「イリヤ、見えるか? この子がお前の子だぞ。お前に似た可愛い女の子だ」
「そっか……、私に、似てるんだ? えへへ……、なんか、嬉しいね」
 その笑顔は、本当に心の底から出た笑みだと思えた。
「イリヤ……」
 だから俺もそれに応えるように、満面の笑みで微笑み返した。


「すみません、お父さん」
「はい?」
 再会と初対面を無事に果たし、少し落ち着いたその時、また横から近づいてきた看護婦に声をかけられた。
「面会の最中申し訳ないんですが、お母さんはかなり体力を消耗していますし、今日のところはこの辺で……」
「あ、そうですか」
 俺はただひたすら浮かれてしまっていたが、イリヤはこんな大仕事を終えたばかりで、本当は俺と話すのだって辛いはずなんだ、ということに今更ながら気づかされた。
「ごめん、イリヤ。俺だけ浮かれて……」
「ううん、そんなことないよ。わたしもすごく嬉しかったから。シロウとこの子に会えて……」
 赤ちゃんをまた看護婦に渡し、イリヤの手をそっと握り締める。
そしてもう片方の手で、子供にも受け継がれたその『白い髪』を梳くように優しく撫でた。
「本当に良く頑張ってくれたな。ありがとう、イリヤ」
「……うん」
「明日また、面会時間になったらすぐに飛んでくるから。だから、今日はゆっくりと休むんだぞ?」
「わかった。待ってる……」

「よし。それじゃあ、もう一度『指きり』だ」
「うんっ!」


 その夜に再び交わした『指きり』は、なかなか切れることがなかった……






 to be continued…