何年振りになるか……、この家に一人きりというのは。
藤ねぇも桜も毎日と言えるくらいにウチに来てくれるのだが、『泊まっていく』ということは意外にも少ない。いや、よっぽどのことがない限り『ない』と言い切ってしまっても良いだろう。
故に、切嗣が逝ってからと言うもの、俺はこの広い家でいつも一人で眠っていた……二年前のあの出来事に出遭うまでは。

「…………ん」
 仰向けだった身体をごろりと横に転がす。
そしてまず目に入ったのが、俺の布団の横に広がるささやかながらのスペース。
「イリヤ」
 ぼそりと呟かれる、そんな少女の名前。
それは、いつもならこのスペースで眠っているはずの少女の名前。
 伸ばした手がその布団を撫でる。
「…………」
 やはり居るべきはずの者がいないためか、なんの温もりも感じない。感じられるのは布の柔らかな感触だけだ。

 あぁ……、何故こんなにも虚無感を感じてしまうのだろうか?
 いや、嘘だ。こんな疑問の答えなどもう分かっている。
――寂しいんだ、イリヤが傍に居ないことが。淋しいんだ、『あの娘』が傍に居ないことが。



 それは今からほんの1、2時間ほど前のことである。
一世一代の大仕事を終え、疲弊しきったイリヤ。そんな彼女のことを思えば、ぐっすり休ませてやりたいとは思うのは当然のことだ。
 けれど俺は、それ以上に彼女の傍に居てやりたかった。
……彼女が眠るまでで良い。それまで手を握っててやりたかった。
 だと言うのに、病院のきまりとは非情なものだ。
 出産の全過程が無事に終わったのが日付も変わった、深夜の2時過ぎのこと。
起き上がることすらままならないイリヤと、生まれたばかりの『あの娘』。彼女らは数人の看護婦に連れられ、別室へと運ばれていった。ちなみに別室というのは、俺の、そしてイリヤの要望でもあった『母子同室の部屋』のこと。
 本来、生まれたばかりの赤ちゃんは新生児室へと預けられる。それはまず母親の体調の問題が前提にあるからだ。
出産という大仕事を終えた後は、イリヤに限らず母親は体力を消費しきっている。なにせ、死ぬほどの苦痛を何時間も味わい、それに耐え続けたのだから。
 そんな母親は大抵の場合、自分の身体のことで手一杯で赤ちゃんのことまで気が回らない(勿論、本心では子供のことを一番に考えているのだけれど、それに身体がついていかない)……という訳で、赤ちゃんは母親とは別室の新生児室に預けられるのである。
 だが、俺たちのように、希望によっては「母子が同室、しかも個室で」なんていう選択も病院よっては可能なのである。
 では何故、俺たちは同室にしたか?
勿論、それは同室するデメリットよりもメリットの方が大きかったからである。

 一つ目は、母親以外でも赤ちゃんに直に触れられるということ。
本日の俺はさっきのほんの数分の面会だけ。そして藤ねぇなどは言われていた通り、イリヤや赤ちゃんにお目通りも叶うことなく追い出されてしまった。
 そして、もし仮に新生児室に預けた場合、俺は新生児室を囲うガラス越しにしか自分の子供を見ることができないという状況下に置かれてしまうのである。集団の赤ちゃんがそこに預けられているからとは言え、それじゃあもはや見世物だ。
それが俺には何よりも嫌だった。
しかも、そのガラス越しの面会というのも、父親にだけ与えられた特権であり、藤ねぇなどはそれすら許されないという非常に厳しい管理体制なのである。
それもやはり嫌だった。
 俺は、俺たちの子供を世話になった藤ねぇや桜たちにいち早く見て欲しかった。抱いてもらいたかった。
いや、本音を言えば「この娘が俺とイリヤの子供だ」――そんな自慢したかったのだ。

 そして二つ目は、そんな藤ねぇや桜が側に居てくれ、助けてくれるということ。
 女性であれば「産休」などというものが適応されるが、男性である俺には「子供が生まれたので休みます」などというものは、一日ならまだしも、そう何日も許されるものではない。
つまり、大抵の場合、出産直後の女性一人で母子同室による自主的な世話ができるかどうか? という不安が生まれてくる。
 だが、夏休みだったことが幸いし、藤ねぇも桜も学校が休みであり、イリヤのことをこの信頼のおける二人に任せられるという大きな安心があったから……だから、俺は仕事中も安心してイリヤとその赤ちゃんのことを任せられるし、彼女たちからすれば「早く赤ちゃんを見たい、触れたい」と思っている。
 つまり、あまり良い表現とは言えないが、「一石二鳥」という訳だ。


「士郎? 明日、朝イチでここに来ようね? それで面会時間中ずーっとイリヤちゃんの所に居るんだから」
 こんな時間だというのに藤ねぇのテンションはいつも以上だ。まるで翌日の遠足を待ちきれない小学生のように。
 しかし、かく言う俺もさっきからずっと興奮しっぱなしだったりする。
明日が……面会開始時刻である8時半という時間が待ち遠しくて仕方がなかった。
「あぁ、そうだな。明日は仕事もないし、一日中居るっていうのも良いかもな」
「うんうん! あ〜、早く士郎とイリヤちゃんの子供の顔見たいなぁ。……ねぇ、どんなだった?」
「どんなって……、そうだなぁ」
 辺りの証明は落とされており、完全な闇に包まれている中、俺はその闇を見つめながら思い返す。先ほどの光景を。
「…………」
 駄目だ。今の俺はきっと、ものすごくにやけてる。
しかし、この暗闇だ…………誰に見られる訳でもないのに、何故か顔を手で覆ってしまう。
 あの時見た光景、感じた光景は一言では表現できない。否、言葉では表現できない。
そんな言葉にできない想いが身体の奥から溢れ出してきて、俺はその場に呆然と立ち尽くしてしまっていた。
「士郎?」
 暗闇の中、藤ねぇの息遣いが分かるほどに接近してくる。
「えっ、あぁ……、その、なんて言うか……」
「やっぱ、いいっ」
「……え?」
 藤ねぇがくるりと回り、俺の鼻を彼女の短い髪がかすめていく。
窓から差し込む月光を背に微笑む藤ねぇの表情は、どこか眩しくすら思えた。
「やっぱり明日のお楽しみにしておきたいし、どうせ士郎に聞いても『可愛かった〜』とかしか言いそうにないし」
「うっ……」
 確かに。もしどうしても一言で表すなら「可愛かった」という他ないだろう。
「やっぱりね。中に入ったときもどうせオロオロしてただけなんでしょ?」
「う、うるさいな。そんなことねぇよっ」
「本当〜?」
 笑われている言うのに、そんな藤ねぇの声はどこか心地良かった。
 そうして俺たちは、冷め切らない興奮を、いつもの俺たちらしい会話で包みながら帰路に着き、今へと至る。

 

「やっぱ、寝れない……よなぁ」
 そうして家に着いたのが、夜も完全に深まった3時過ぎ。さらに布団に入ってからはもう既に1時間以上が経過していた。
 そして俺は、隣の布団を何度も寝返りを打ちつつ眺めながら、ぶつぶつと呟く。
 それはある意味、イリヤたちがいない寂しさを紛らわせるため。
「明日会ったらまず何と言おうか?」とか、「子供にはどうやって接しよう?」とか……、そして「子供の名前は何にしよう?」とか、とにかく前向きなことを色々と考えた。
また、ときたま起き上がっては「○○○クラブ」などという育児用の雑誌をしきりに見たり……なんてことも。
 ……でも、落ち着かない。とにかく彼女たちのことが気になってしょうがない。
「あぁ、もうっ!」
 そんな苛立ちと夏の寝苦しさが俺をさらに眠りから遠ざける。そして俺は身体の上にかかっているタオルケットを蹴飛ばした。

「…………」
 だが冷静に考えてみると、自分が情けなくなってもくる。
寂しがったり、苛立ったり……、情緒不安定もいいところだ。こんなだから、助産婦のおばちゃんに「本当に父親が務まるのか?」みたいなことを言われるんだろうな。
 それがなにか、恥ずかしくもあり、悔しくもあって、俺はうつ伏せになって枕に顔を埋めた。
「……寝よ。二人に目の下にくまを作った顔で会いに行くのも気が引けるしな」
 まぁ、それでも多分眠ることはできないだろう。でも、これも気を紛らわせるためだ。

 今この同じ時に、別の場所で眠っているであろうイリヤと『あの娘』
彼女たちが見ている『夢』を俺も見たい――そんな願望によって。

「おやすみ、イリヤ……」
 そして、俺はゆっくりと瞼を閉じた。

 だが、イリヤが望むその『夢』を俺が見ることは、叶うことはなかった……







夏に降る『雪』
-tomorrow-







 まだ日が昇ったばかりだというのに、その光は眩しく、そして熱い。
そしてその強い光が俺の閉じた目の隙間をかいくぐり、俺の網膜を刺激した。
「あぁ、起きてるよ。起きてるから、そんなに強くするなよ……」
 人でも物でもない、『光』という形ないモノに対して文句を言いながら、ゆっくりと瞼を開いていった。

 枕元にある時計の針は、午前7時を指している。
 瞼は閉じていたけれど、結局全く眠ることができなかった俺。不眠のせいで『ハイ』になっているのかもしれないが、目は冴えに冴えまくっていた。
「面会開始の時刻が8時半。のんびり行けば、ちょうど良い時間かもしれないな」
 また、気分の方もかなり『ハイ』になっている。
まぁ、こっちの方は昨夜からずっとだが……。とにかく、まだ布団から這い出る前からもうこんなことを考えてしまっている自分がいた。
そして、それもこれもみんな、今俺の隣に居ない人のせいだ。
『会いたい』――――その気持ちが、その想いが……今この瞬間も尚、加速し、高揚していっているのが分かる。
 そしたらもう、布団の中で寝てるなんてできなかった。
すかさずそこから抜け出して、服を着替える。シャツのボタン一つ一つを止めるのさえもどかしい。
「早く、早く……」
 さきほど言ったように、時間はまだまだ十分にある。たとえ『歩いて行ったとしても』だ。
 だと言うのに今の俺はと言うと、身支度は適当……そして朝食を取ることすら億劫だった。
「悪いな、藤ねぇ。ちょっとばかし早いけど、先に行かせてもらうな」
 そうして最低限の準備だけ終えた俺は、そんな書置きを残して、家を出た。


 全周囲から降り注ぐ日差しは嫌味なくらいに強かったけれど、まだ蝉たちも本格的に活動し始めていないこの時間は、面白いくらいに静かだった。
「はぁぁ……」
 流れていく深山の町の風景に、そんな感嘆のため息をもらす。
 ――心地良かったんだ。拒む障害が無いということが。
 夏の喧騒も、人々の雑踏も。また、今日に限って信号機すら気持ちいいくらいに『青』信号。
大げさな言い方かもしれないが、あまりにも順調に進みすぎて、何か作為的なものすら覚えてしまうくらいだった。
 でも、それもたまにはいい。作為的、運命…………つまり、今回のそれらは俺たちを良い方向に導いてくれるものなのだから。
 都合の良い考え方だってことは分かってる。でも、「『運命』というモノすら、俺たちの行く末を祝ってくれてる」――そんな風に考えてしまうのだ、今の俺は。
 弾む足取り――それはイリヤたちとの距離が近付くにつれて、さらに加速していく。
深山の交差点を抜け、新都大橋を越え、駅前パークをも颯爽と抜けていく。

(イリヤ……)
 その駅前パークで目に入った時計の針は、まだ8時にもなっていなかった。
そしてこの調子で行けば、30分は待つことになるというのに……この足は止まることを知らない。

(……イリヤ……)
 病院の頭の部分が視界に入る。さらに近付くと窓も多く見えてくる。
イリヤたちの部屋はどの辺だろうか?――足の速度は速めつつも、目はその窓を追って目まぐるしく動き回る。

(…………イリヤ)
 そうして上を向きながら歩いていると、俺はいつの間にガラスの扉をくぐり、建物の中へと足を踏み入れていた。

 時刻は8時過ぎ。面会時間にも、診察時間にも早いこの時間帯の病院の中はまた一段と静かだった。あまりに静か過ぎて、逆に耳が痛いくらいだった。
 そして、この看護婦の姿すらろくに見当たらない状況の中、俺はぼつりとカウンターの前の長椅子に腰を下ろした。
「…………」
 相変わらずの臭いが俺の鼻をつく。
 だが、不思議と嫌にならないのは何故だろう……。それに、この静けさだってそうだ。
病院なんて嫌なイメージしか浮かばないのに、今日の俺はそれが不快にならない。むしろ、興奮、意欲……そんなものを掻き立てられるようだ。
 そして何より、『待つ』ということが楽しいのである。
 周りに誰も居ない中で、一人、『これから』のことを思い浮かべる。
それは勿論、『これからイリヤたちに会って』のことでもあるが、『これからの俺たちの生活』のことでもある。
昨晩は色々と考えすぎてしまったせいで、全くと言って思い浮かばなかったが、今の俺にはそのビジョンがありありと見えていた。それを早くイリヤに会って、話したい……伝えたい。
 その逸る気持ちが、俺の目を時計に釘付けにさせていた。
360°に分割した円を、時計の秒針が小刻みに回転していく。
 カチ、カチ、カチ――――その動きをトレースするようにして目が追っていく。
(まだか、まだか……)
 と、時計の針が一周回るごとにその気持ちが募っていく。
 そしてそれが何十週かしたところで、俺はようやくその席を立った。

 時刻はついに8時半。イリヤたちと会える時間。
 部屋の番号は既に知っている。俺はそこに向かって足を動かしてやるだけで良い。そうすれば、イリヤに――――会える。

 ――駆ける。駆け抜けていく。
病院の廊下でも、看護婦に怒鳴られようともお構いなしだ。
 白い壁が、白い扉がいくつも流れていく。またいくつもの階段を上っていく。
「はぁ、はぁ、は……」
 そこで俺は立ち止まり、激しい呼吸を整える。そこは一つの病室の前。
ゆっくりと、俺は壁についた手をずらしていく。左から右へ――
 俺の手の下にあるプレート。そこに文字が現れていく。

――イリヤ――スフィール――フォン――アインツベルン――

 間違いない。それは間違いなく、俺の大切な人の名前だ。
「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン……」
 その名を自分の胸に刻む込むかのように、一文字一文字をはっきりと言葉にしていく。そして今度はその手を右から左へ、その名前を愛でるかのように優しく撫でた。
「…………ふぅ」
 もう一度だけ大きく深呼吸をする。落ち着こうとしているのだけれど、やはり駄目なようだ。
ドアノブを掴む手がブルブルと震えてしまっているのが分かる。
(まったく、何を緊張してるんだ、俺は?)
 そんな苦笑を漏らしつつ、俺はその手にもう片方の手を添え、そしてゆっくりとドアを開いた。



「…………」
 そのドアを押し開くと、まるで俺を迎えるかのような穏やかな風が俺の顔を撫でてきた。
 そして間の前に広がるのは、太陽の光を反射して眩しいくらいに輝く白いカーテンとそれをゆらゆらと揺らす風。
一応病室だと言うのに、「なにか絵になる」――――素人ながらも、そんな雰囲気がこの部屋からは感じ取れた。
 また、その風を俺と同じく受けているのがこの部屋に二人。目の前の大きなベッドに一人、そして窓際の小さなベッドにもう一人。どちらも同じような格好で寝ているところが面白い。
「ほんと、母子なんだなぁ」
 その姿には関心と言うよりは、驚きすら感じてしまう。「なんでこんなにソックリなんだ!?」って感じに。
 そして俺はそんな二人の顔をもっと近くで見ようと、そのベッドの側へと近付き、そこに置いてあった椅子に腰を下ろした。

「イリヤ……」
 彼女が好きだと言っていた、その真っ白な髪の毛を梳く。その感触――それはまるで南国の白い砂のように、さらさらとしていた。
 また、間近で彼女の顔を見てみると、その肌は本当に雪のように白い。
「ホント、良く頑張ったな……イリヤ」

「…………んぅ」
「あ……」
 そして今度は彼女の頬に触れようとした時、布団がゴソリと動きを見せた。
「ごめん、起こしちゃったか?」
 目の前の少女に優しく声をかける。すると彼女は二度三度とせわしなく瞬きを繰り返す。
「…………」
 彼女の視界内に俺の姿は入っているのだろうが、おそらく俺に焦点が合っていない…………これはそんな視線だ。
そのぼけーっとした表情はある意味マヌケっぽくもあり、なんだかとても可愛らしい。
「おはよ、イリヤ。目は覚めたか?」
「う、うぅん……、シロウ? なんだ、早いね…………ふぁ」
 気だるそうなイリヤ。おそらく昨晩の疲労を引きずっているのであろう。だが、それでもその欠伸をする姿もどこか可愛らしく感じ、俺は笑みをこぼした。
「ハハッ……呑気だな、イリヤは。昨日はぐっすりと眠れたか?」
「ううん。実はあんまり……」
「そっか。かく言う俺も一睡もしてないんだけどね」
 彼女から視線を逸らし、ハハ……と、鼻のあたまをかきながら苦笑をこぼす。
だが、逸れた視線は磁石に引き寄せられるが如く、再び彼女の方へと向けさせられた。と言うのも……
「駄目だよ、きちんと寝ないと!」
「お、おぅ……」
 冗談気味に言ったそれだったのが、何故かイリヤの怒りを買っていたからだ。しかも、彼女のその眼差しは、まるで日本刀のような切れる鋭さを秘めていた。
そしてそれに気圧された俺は、ガタンと椅子から落ちそうになってしまった。
「だ、大丈夫っ!?」
 だが、それも途端に変化する。今度は吸い込まれるくらいに寂しそうな眼差しに、だ。
「……あぁ、大丈夫だ。怒ったり、心配したり、色々忙しいな」
「だ、だって……」
 すると、彼女の顔はみるみるうちに赤く染まっていく。
「今度は真っ赤だ。面白れぇ……」
 そう言って、彼女の赤く染まった頬をぷにぷにやると、まるで自分の巣に戻るかのように布団の中に戻っていった。
「もぅ、シロウったらっ! こっちは真剣に考えて言ってるに……」
「ごめん、ごめん」
 今度はきっと布団の中でリスみたいに頬膨らませて怒ってるんだろうなぁ……なんていうような微笑ましい光景を思い浮かべながら、その布団をポンポンと軽く叩いた。
そして、にょきりと顔の上半分の出したイリヤの頭を撫でてやろうと手を伸ばしたとき、俺はそれを見た。
「イリ……ヤ……?」

 それは――――涙。

 彼女の頬を伝い、白いシーツを濡らすそれは、誰がどう見ても『涙』に他ならなかった。
「ご、ごめん。俺、そんなつもりじゃ……」
 ――何故? どうして?
今の俺の頭にはそんな疑問形の文と疑問詞の羅列で埋め尽くされていた。
そして俺は、こんな時どうしたらいいのかすら分からなくて、ただただ慌てふためくだけだった。
「駄目だよ、ちゃんと寝て……ちゃんと元気でいてくれないと。シロウはもうパパなんだから」
「な、なんだ。そんなことか。別にそんなことなら……」
「『そんなこと』じゃない! 大切なことだよ…………とっても」
「イリヤ?」
 そりゃあ、今日から俺は父親になるんだ。それ相応の自覚と覚悟を持たなければならないことは分かっている。
 そして、俺は何も、父親としての役割を軽視しているつもりはない。だって、その娘はイリヤがお腹を痛めてまで生んでくれた大切な娘であり、何より俺自身が父親になることを切に願っていたのだから。
 だから、イリヤが怒る理由は分かるけれど、涙を見せる理由が分からなかった。きっとそれは、単なる情緒不安定だから、などと言う曖昧なモノではない。では、その涙にどんな想いが込められているというのか……

 そんな二人の沈黙。それは一人の泣き声によって破られた。
「……ぁ」
 隣のベッドから聞こえてくるその泣き声に、俺たちは同時に顔を向ける。
「ああぁ、あああ――――ぁんっ!」
 大きくなるそれに耐え切れず、俺はすぐにその娘の側に駆け寄り、布団から優しく抱き上げた。
「あぁ、よしよし。ごめんな」
 胸に抱くその娘の重さ。抱いてみて分かる――――なんて『重い』のだろう、と。
質量的で言うなれば、所詮3kgちょっと。米袋より軽いそれは、重いはずなんてなかった。けれど『重い』というのはそういうことじゃない。
 この娘の父親としての重さ。分かっていたつもりだけど、それは俺の想像していたものよりずっと『重い』ということを強く実感させられた。
そしてイリヤはそのことをもう知っていたから――そんな涙だったのかもしれない。
「イリヤ、ごめん。俺は少し甘く見ていたのかも……」
 腕の中の娘をなだめるように揺すりながら、俺は傍らに顔を向けた。
「あれ?」
 だが、俺の隣には誰も居なかった。
確か、この娘の泣き声が聞こえたとき、俺たちは同時に動こうとした気配は感じられた。だけどイリヤは……

「…………ごめん、シロウ」
 今もまだ、そのベッドの上で横たわったままだったのだ。ただ顔だけをこちらに向けた状態で。
「イリヤ……なんで?」
 その問いにイリヤは一度、とても悲しそうな顔をして、それからそのことを口にした。
「わたし、なんか……起き上がれないみたい」
「なっ!?」
 その事実についに腕の中の娘を落としそうなくらいの衝撃を受けた。だが、それを何とか踏みとどめた俺は、娘を抱いたままイリヤの下へと駆け寄った。
「だ、大丈夫なのか!?」
「ぁ……、やっと顔が見れた」
「ちゃかすな! そんなに酷いなら、今すぐ医者を……っ!」
「大丈夫だよ。それよりその娘の顔、もっと近くで見たいな」
「イリヤ!! お前の方こそ『母親』としての自覚を持てよ!」
 俺は何かが弾けたように、イリヤに言葉を叩きつけていた。
 腹が立ったんだ。
あの涙を見ていたから、余計に……

 だと言うのに、肝心のイリヤは顔色一つ変えることなく、同じ言葉を口にした。
「その娘の顔を……見せて?」
「イリヤ……」
 そのまっすぐすぎる視線――――それに俺は言葉を失い、娘を抱いたままの状態で固まってしまった。強い意志を持ちながら、それでいてとても悲しそうな……そんな瞳で見られたら、俺はもうどうすることもできないじゃないか。
「……分かったよ。もし起きたかったら言えよ。 俺が……支えてやるから」
「シロウ…………、ありがとう」
「別にお礼なんて言う必要ない。『俺はお前を守る』――――そう決めたんだから」
「うん、ありがと……」
「――――全く」
 そのあまりの言うことの聞かなさに辟易としつつも、足取り軽く、イリヤの下へと足を運んだ。
「ほら、イリヤ。お前の子だ」
 そしてそっとその娘を彼女の傍らに寝かせてやるのだった。

 まだ目も開いていないと言うのに、キョロキョロ……とまではいかないが、そんな風に首を振る姿がどこか滑稽だ。
「アハッ、なんか可愛い」
 そう言って、俺がさっきイリヤにやったように、ぷにぷにと頬をつつく。そして、それを受けたその娘は嫌がっているのか、はたまた喜んでいるのか分からない仕草で身体を震わせた。
「こらこら、子供をおもちゃにするなよ?」
「フフフ……、だってこんなに可愛いんだもん」
 それでまたその行為を繰り返すのだが、俺は俺でそれを止めようとはしなかった。
 だって、その母子のふれあいがとてつもなく「かけがえのないもの」のように感じたから。
 だから俺はしばしの間、腰を落ち着け――そしてその光景を楽しむことにした。

 外から降り注ぐ強すぎる光は、白いカーテンが上手く緩和してくれているおかげで部屋をちょうど良い明るさに保ってくれていたし、その大きなカーテンを揺らすほどの強めの風もこんな日には意外と心地良いものだ。
 穏やかすぎるひととき――――それは俺やイリヤが知らなかった、初めての『家族の団欒』
イリヤは相変わらずその娘の頬の感触を楽しんでおり、俺はと言うと、そんなイリヤの髪を自分の指にくるくると巻きつけては解き――そんな単調な行為を繰り返す。
 傍から見れば、それは馬鹿みたいに「じゃれているだけ」と取られても仕方のない光景。
けれど、「俺、イリヤ、そしてこの娘――――家族三人誰もが初めて」という俺たちにとっては、それで精一杯であり、またそれで十分でもあった。
そしてこれからはこの娘の成長と共に、俺たち自身も『親』として成長していくんだ。
 そう……『これから』だ。何事にも不慣れな俺たちは『今、この瞬間から』その一歩を踏み出す。それも皆揃ってだ。

 しかし、俺がそう心に誓ったばかりだというのに、イリヤはその娘をぎゅっと抱きしめながらこう呟いた。
 それはまるで『虫の息』のような小さな声。
けれど、俺には聞こえた。いや、聞いてしまったんだ。


「この娘が、わたしの――――『生きた証』なんだ」


 ……そんな言葉を。


 確か、それはイリヤが以前に言っていた気がする言葉。
 だが、その言葉に感じる違和感は何だ? そして、俺のこの胸にはりつく嫌悪感は何だ?

「イリヤ、お前……」
 俺はもう気付いている。その言葉の違和感の正体に。
だが、それを口にしたくはなかった。もしそれを口にしようものなら、その相違が逆に真実になってしまいそうで……怖いんだ。
 歯がガタガタと震える。その歯という『檻』を叩くように、こじ開けようとするように――俺の喉から言葉が飛び出そうとする。
(やめろ、言うな! それを口にするんじゃないっ!!)
 そう自分自身に対して叱咤の言葉をぶつけるのだが、その健闘空しく、言葉は俺の口から離れるのだった。

「なんで……なんで 『た』 なんだよ!? なんで『過去形』で語るんだよ!?
お前は生き『ている』。今も、そしてこれからも『生きていく』んだろ!?
 なのに、なんでそんなこと……そんなこと言うんだよ」
 俺はイリヤの目の前に手をついてうなだれる。

 言いたくなかった。
せっかくついさっき『俺たちのこれから』という道を見つけられたと言うのに……
 否定したかった。
今のは単なる言葉の綾だって。俺の単なる過剰反応だって。

 そうしてそんな淡い期待を抱きながら顔を上げるのだが、依然変わらぬ表情のイリヤの顔があるだけ。それも、俺の今の言葉を聞いても、だ。
つまりそれは、俺の言葉に対して『肯定』だということ……
 俺はシーツごと手を強く握り締め、砕けるくらいに歯を強く噛み締めた。
「イリヤ……、お前、なに弱気になってるんだよ?
今、ちょっと身体が上手く起き上がらないからか? 個人差はあるだろうけど、出産後の大抵の母親なんてそんなものだ。
それで肉体が弱っているのに伴って、精神の方も弱気になってしまっているだけなんだ……」
「シロウ……」
「一週間も休めば、すぐに良くなる。でも、『病は気から』っていうのを知らないか?
気持ちを悪い方へ悪い方へと考えてしまうと、自分の身体も実際にその悪い方へと傾いてしまうんだ。だから本当は良くなるはずなのに、そんな気持ちでいたら良くなるものも良くならないんだ」
「シロウ……」
「だからイリヤももっと『これから』のことを考えるんだ。俺とイリヤとこの娘――三人の未来のことを」
「シロウ……聞いて」
「だから、イリヤ――――だからっ!」
 そのとき、俺のこわばる肌をイリヤの手がそっと撫でる。まるでほぐしてくれるような、溶かしてくれるような優しさで。

「シロウ……、わたし、『夢』を見たの」
「『夢』?」
「うん。わたしとシロウとこの娘――三人が出てくる未来の夢」
「…………」
 俺がさっき言ったから、その口裏合わせ……ということではないと思う。何故ならそれは、彼女自身の瞳が物語っていた。
 何かに憧れる――そんな前向きな輝き。
イリヤだってちゃんと考えている。ちゃんと望んでいる。それがひどく嬉しくて、そしてひどくほっとした。
 そして俺は、イリヤが見たというその『夢』の話に黙って耳を傾けた。



 ――それは別にどうってこともない『普通』の未来の話。
今日みたいに天気が良く、日差しの強い日に、俺たち三人でピクニックに行くという話。
 勿論ピクニックに欠かせないものと言えば、お弁当。
普通は俺一人で作るというのが常なのだが、その日に限っては二人も手伝うなどと言ってくる。そして、娘を挟んで俺たち三人並んで台所の前に立つんだ。
 でも、俺は横を何度もちらちらと見ながら自分の作業を進める。危なっかしくて堪らないのだ……特にイリヤが。
娘の方は意外に手際も手先も良く安心して見てられるのだが、母親たるイリヤの方が料理がダメだというのは一体どういうことだろう? さらに言えば、その娘にあれやこれやと注意される場面も多々……しかも、それに対し真面目にも「うんうん」と頷きながらやっているのだから、もう笑うしかない。
「もう、なんで笑うのよぉ?」
「いや。まぁ、その…………なんだ? なぁ?」
「どうしてそこでわたしに振るの、パパ?」
 三人が三人、お互いに視線を交わしながら、笑みを浮かべた。
 そうして出かけた三人は、だだっ広い草原の真ん中で、『川』の字になってのんびりと午睡を楽しんだ――



 イリヤが語ったのは、そんな何気ない日常の1シーン。
それは、俺がぽかんと口を開けて唖然としてしまうくらいに――――『普通』すぎた。この国で過ごす者にとっては、そんなのは別に特別でもなんでもないのだから。
「そんな夢、いくらだって叶えれば良い。なんなら、イリヤたちが退院して少し落ち着いたら、三人で出かけても良い。
まだこの娘と一緒に料理することはできないけれど、イリヤとなら料理はできる。言ってくれれば、イリヤに料理だって教えてやる」
「シロウ……」
 そうだ。イリヤが望むなら、何だって俺が叶えてやる。ましてや、そんなことならばいくらだって叶えてやる。
「だから、そのために元気になって早くこの病院とおさらばしよう、なっ?」
 一度だけじゃない。俺はしつこいくらいに何度も何度もそう言う。
 けれど、イリヤはただ悲しそうな瞳を浮かべるだけで、首を縦には振ってはくれなかった。
「イリヤ、どうしてっ!?」
「…………」
 それでも応えてくれないイリヤについに苛立ちを感じ、声を荒げてしまう。そして、その声に傍らに居る娘がブルリと震えを見せるのだが、それでも俺は止まれそうにない。
「イリヤッ!!」
「……『普通』じゃないよ」
「はっ?」
 ようやく発せられたと思ったのに、その言葉は俺には理解することができなかった。
「普通」じゃない? じゃあ、なんだと言うのだ?
その疑問はもはや疑問ではなく、否定だった。
「シロウにとってはそんなこと『普通』なのかもしれないけど、わたしには全然『普通』じゃないもん」
「それは『過去』のイリヤにとっては、だろ? 『今』そして『これから』のイリヤにとってはそんなのは『普通』のことだ!
もしイリヤ自身がそう思えないのなら、俺がきっとそう思えるようにしてやる。だから……」
 そんな俺の言葉にイリヤの表情がほぐれ、瞳にふと優しさが灯る。
「ありがと、シロウ」
「じゃ、じゃあ?」
「でも、ごめんね。わたし、シロウがそう言ってくれるのは本当に嬉しい。
けど、そんなわたしには『これから』がないの。ホムンクルスとして生み出されたわたしの寿命。それはもう……」
「馬鹿なっ!」
 ダンとベッドの上を拳が強く叩く。そしてスプリングの影響でギシギシと彼女たちの身体を揺らした。

 『ホムンクルス』?――――冗談じゃない。イリヤは『人間』だ。こうやってちゃんと子供を授かることができる『人間』なんだ。
 やっぱりイリヤは何もかも間違っているよ。
 そう、間違っているんだ。
イリヤが『ホムンクルス』であることも、語った夢が『普通』じゃないことも、そして『これから』がないことも――――みんなみんな間違いだらけだ。
母親になるというのに、これじゃあ、今の彼女はまるで出来の悪い子供ようだ。

 思ったこと――それらをそのまま彼女のぶつけてやりたかった。
でも、それらの言葉全部、俺の口から吐き出されることはなかった。いや、吐き出すことが出来なかったのだ。
 ……なんで? これじゃあ、何も言わなかったら全部『肯定』しているようなものじゃないか?
なのに、何故俺は……

「シロウ、最期にお願いがあるの」
「……」
「『今』のわたしが望む、最期のお願い」
「…………」
「シロウ、言ったよね? 私のお願いを何だって叶えてくれるって。だから、わたしの最期のお願いを、シロウに聞いてほしいの」
「………………」
 俺はずっと黙ったままでいた。だって、俺は一体何と答えてやれば良い?
『YES』か?『NO』か? 答えは二つに一つ。
 いや、答えなんて選ぶ余地すらない。俺が『そっち』以外の答えを選べるはずがないのだから……

「わかった。確かに何だって叶えてやる――そう言ったからな。本当に『何だって』叶えてやる!」
 そうだ。『何だって』叶えてやる。叶えてみせるさ。
もしイリヤが『生きたい』と言うなら、俺はどんなことをしても、それを叶えてやるつもりだ。
 だから、そう願ってくれ――――『生きたい』と。
 そうして俺はきつく目を瞑り、その時を待った。
一秒一秒がとても長く感じる。昨日の待機室で感じた時を確実に上回るほどの時の流れの遅さ……それはある種の『永遠』だ。
「…………」
 そしてその『永遠』とも感じる数秒の後、うなだれた俺の脳天部にイリヤの吐息が、声が投げかけられた。


「この娘の名前、わたしが付けたいの……」


 あぁ、なんて『お願い』……
こんな時までイリヤは間違いだらけだ。親がこの名前をつけるなんて、『願い』じゃなくて、もはや『義務』なのに。
 俺は顔を上げられない。
だって、もしそうしてイリヤの顔を見てしまったら、きっとイリヤを罵倒してしまうから。「なんでそんな馬鹿みたいな『お願い』なんだ!?」って。
 だから俺は感情を抑えつつ、返事をした。
「そう……か。それで、なんていうんだ? この娘の名前は」
「うん。わたしの大好きなものの名前でね……」





 ――――『雪』



「『雪』? あの冬に降る雪のことか?」
「そう。わたし、冬の寒さは苦手だけど、雪は大好きだから。
この髪も雪の色みたいでしょ? お母さまの髪そっくりで大好きなの。この娘の髪も同じだから、わたしすごく嬉しいの」
 イリヤはキュッとその自分の髪を握り締める。
「イリヤ……」
 今はどんな想いでその髪を握り締めているのだろうか?
きっと大好きな母親のことを考えているに違いない。それと同時に、今度は自分が母親であることを……

 そうか。俺は何かを勘違いしていたのかもしれない。
イリヤは自分の身体のことを「仕方がない」――そんな言葉で片付けてしまうつもりなんて一片も持っていない。
 ―― 子を想わない親はいない ――
 イリヤだって……いや、イリヤだからこそ知ってるんだ。『母親』というものの大切さを。

「……全く。夏の生まれなのに『雪』なんて。季節外れもいいとこだな」
「ダメ……かな?」
「いや」
 苦笑を漏らしつつも、俺もその名を気に入っていた。
確かに子供の名前はその生まれた季節や月日にちなんで名づけることも多いが、こうも対称的なのも珍しい。
 だが、似合っているのだから不思議だ。
「夏の『雪』……か」
 そして俺はその『雪』をそっと抱き上げた。
「雪……。今日からお前は雪だ。俺とイリヤの大切な娘だ」
 『高い、高い』の要領で彼女の身体を持ち上げてやると、表情が穏やかに歪む。喜んでいるのか、嫌がっているのかは微妙だが、それでもその名前はどうやら気に入ってくれたようだ。
その証拠に……
「……雪?」
 もう一度その名前を呼んでやると、今度は確かに笑っているように見えた。その笑顔が伝染し、俺の顔も自然とにやけてしまう。
「…………」
 今のこの気持ち、一言では表しきれない。
 顔が熱い。目が熱い。喉が熱い。出てきそうで出てこない……こみ上げてくる涙が、言葉が、熱い。

 それは『母親』からの心を込めた初めての贈り物。イリヤの雪を想う気持ち。

「ほら。見てみろよ、イリヤ? この笑顔……雪もこの名前が気に入ったってさ」
 イリヤにその表情を見せてやろうと、雪を抱いたまま振り返る。
「なっ、イリ……、ヤ…………?」


 俺は凍りついた。冗談じゃなく、雪を落としてしまいそうなくらいに……
「イリヤ……」
 そして震える。まるで『雪』に埋め尽くされたような寒さに、俺は動けなくなる。
「ぁ……、うぁ……」
 なんだ? 俺の眼前に広がっているモノは一体何なんだ?
 なんでイリヤはこんな……

「なんで、こんなに綺麗な顔してるんだよ……イリヤぁ!」
 俺の眼前に広がっている光景、眼前にあるモノは、まるで『人形』のように綺麗な顔をしたイリヤが横たわっていた。
 針とした空気は、ただ寒いだけじゃなく、突き刺すような痛みを伴って、俺の肌を包み込む。
そんな空気…………不快すぎるに決まっているのに、どうしてか心から不快な気分にはなれない。
 だって、その綺麗な顔はあまりにも満足気だったから。例えるなら、まるで憑き物が落ちたような……そんな爽快さすら感じていた。
「そんな顔されたら、俺はもう何も言えないじゃないか……」

 射す光。なびくカーテン。流れる汗。揺れる髪。そして騒がしさを増した、蝉の声。
そんな中、俺は呆然と立ち尽くす。
「イリヤ……」
 その少女はもういない。もうその目を開くことはない。
「……ァ、イリヤ……ッ!」
 もうその笑顔を見ることは出来ない。もうその身体を抱くことは出来ない。
 もう……、もう……っ!!
 ついに溢れ出してしまう感情の波。そしてその波に流されて零れてしまう――――涙。
「決して泣くまい」と頑なに決めていたのだけれど、一度その関が崩壊してしまうと、それはもう洪水のように流れ続けてしまっていた。

「……ぁ」
 だが、その時、俺の頬に何かが触れた。
張り詰めた緊張を和らげようとするもの。それは――――俺の腕の中にあったもの。
「ゆ……き……」
 イリヤが残してくれた、俺とイリヤの大切な結晶。
彼女の手がゆっくりと持ち上がり、まるで俺の頬を撫でるかのように動く。
「……ゆきぃっ」
 壊さないように優しく、されど熱く、強く……、俺はその華奢な身体を抱きしめた。
「…………」
 雪はまだ目も見えない、言葉も喋れない。
だと言うのに、まるで俺が……俺の涙が見えているかのように、彼女の指は正確に俺の涙を拭ってくれた。
「ごめん、ごめんな……雪。パパ、明日からはもう絶対に泣かないから。だから今だけは……今だけはっ!!」
 
 泣いた。とにかく泣いた。咽び泣いた。
大の大人が……、しかもこれから『父親』になろうという男が、赤ちゃんの前で赤ちゃんのように泣いた。
もしかすると、暑さのせいで吹き出ている汗よりも多量に出たのではないか? と思えるくらい、身体の水分が枯渇してしまうくらいに涙した。


 白い部屋に響き渡るのは、俺のそんな泣き声と蝉の鳴き声……


 そんな暑い夏の日のこと……





 俺の腕の中に『雪』が舞い降りた日のこと……






epilogue







「パパ? わたしの靴下どこぉ〜?」
「えぇ? いつもの所に入ってないのか?」
「うん、な〜い」
 俺たちのいつもやりとりなはずなのに……雪の返事、そして俺の返事にもどこか気だるさが見える。
それもそのはず。先ほど見た天気予報によれば、本日の冬木の気温はこの夏の最高気温39℃という予報を提示したのである。そして、今の気温もまだ8時過ぎなのに、なんと30℃。恐らくその予報は的中すること間違いないだろう。
 そしてそんな暑い中、俺はと言うと、居間とは違い、扇風機もクーラーもない台所の前で火を扱っていたりするのだから、たまったものじゃない。
「そんなことより、雪? パパの方を手伝ってくれないか?」
「なんで? サクラが居るんだから、大丈夫でしょ?」
「いや、まぁ……そうなんだけどさ」
 そう。今、俺の隣では桜が料理を手伝ってくれている。まぁ、これは今日に限らず、大抵手伝いに来てくれるのだが。
「ねぇねぇ、サクラ? サクラは知ってる、わたしの靴下?」
「って、何で桜に聞くんだよ!? 知ってる訳…………」
「うん、知ってるよ。だって、昨日私が畳んだんだもの」
「……なんでっ!?」
 と驚く俺なのだが、よくよく考えてみれば当然かもしれない。
雪がこの家に来てからというもの、桜や藤ねぇの出入りも頻繁かつ長時間になった。それも雪の面倒を見たがって、彼女を取り合うことも少なくはない。
そういえば、昨日の夜なんかは「どっちが雪とお風呂に入るか?」で言い争いになったくらいだ。それで、じゃんけんで負けた桜は仕方なく、家事……つまり洗濯物の整頓などをやってくれた、という訳だ。

「じゃあ、先輩。ちょっと雪ちゃんの方へ行って来て良いですか?」
「あ、あぁ。どうせ俺じゃ分からないんだから、桜に行ってもらわないとどうしようもないんだが」
「はい。じゃあ、私行ってきますね。すみませんが、料理の方、少しの間お願いしますね」
「おぅ。任せとけ」
 そして俺は桜の後ろ姿を手をひらひらさせて見送った。
「桜も藤ねぇも、完全に『母親』気分だよな。授業参観とかあったら、間違いなく飛んできそうだしな」
 その光景を思い浮かべて苦笑する。
だって、桜はともかくとして、藤ねぇが教壇の前ではなく、教室の後ろに立つ姿は違和感しか覚えない。
「……それに、藤『ねぇ』はやっぱり『姉』であって、『母親』にはどうあっても見えないよな」
 桜の姿が俺の視界から消えたのを確認すると、俺は再び振り返り、調理具たちの前に立った。
「さてっ。桜の分まで頑張りますか!」
 半そでのシャツの袖を肩まで捲り上げ、そして包丁を手に握った。



 あれからもう……6年の年月が過ぎ去った。早いものである。
雪が赤ちゃんだったのが、まるで昨日のように思えるほど……それほど、この6年間は短かった。
 6年前のあの夏の日、あの後に遅れてやってきた藤ねぇと桜はただただ絶句していた。そして微かに発せられた言葉――「信じられない」はまさにその通りだった。あの時のイリヤの顔を見て、誰が「死んでいる」と思えただろうか? 医者ですら一目で気付くことなんて不可能だったくらいなのだから。
 だが、彼女ら二人は決して涙を流すようなことはしなかった。俺たち三人の中で泣いているのは、男である俺ただ一人だった。
その時の気の動転していた俺はそんな二人を見て罵倒した。彼女の死を目の前にして、泣くこと……ましてや何も話すことがなかった彼女らを。
「二人にとって、イリヤなんてその程度の存在でしかなかったのか?」と。
 二人に対し「何て酷いことを言ってしまったんだ」――そう思えたのはその日の夜のことだった。俺はその夜までの時間、二人のことをただただ責め続けた。

 結局、俺は雪のことを新生児室に移すことにし、家に帰った。イリヤのことで色々とやらなければならないことがあったからである。
 その夜、泣き疲れと『葬式の準備』による疲れとで疲弊しきった俺は、いつの間にか彼女たち二人をほっといて、自分だけ眠ってしまっていた。
 そして、午前4時という微妙な時間に目が覚めてしまった俺がトイレに行こうと居間の側を通りかかると、そこから泣き声が聞こえてきたのだ。
「……まさか、な」
 半信半疑でその中の様子を見るために襖をそっと開いてみると、そこにはイリヤの遺影を目の前に音も立てずに泣き続ける、藤ねぇと桜の姿があった。
 その時ようやく俺は悟ったんだ。あの時の二人は泣けなかったんじゃなく、俺の前だから泣かなかったんだ、と。

 その次の日からはもう、二人はイリヤのことで涙するのも、イリヤのことを言葉にするのもやめた。
 そして、あの日以降、俺は雪をイリヤと会わせるようなこともしなかった。
 ……忙しかった、というのは恐らく間違いじゃないけれど、それ以上に雪が幼すぎた。
 過酷なようだかれど、俺は雪にはきちんとイリヤのことを、母親のことを知ってほしかったから……この6年という年月を待ったのである。
 そして今日はまさにあの日からちょうど6年経った日。雪の誕生日であり、イリヤの命日という日。
 俺は今日、6年ぶりに母子を再会させる。
「イリヤ……待たせてごめんな」
 そう呟くのと同時に、トンと心地良い音を立てて包丁がまな板を叩く音が台所に響いた。



◇ ◇ ◇



 一つの墓の前に4人の黒い影が並ぶ。
俺と雪と、藤ねぇとさくら。雪の腕の中には花が抱きしめられている。
 墓地という場所のせいだろうか、最高気温を記録するはずの暑さがさほど感じられない。
いや、嘘だ。実際には暑くて仕方ない。その証拠に、喪服の黒に身を包んだ俺の身体からは汗が多量に出てくるのだから。
だが、雪ですら「暑い」の一言も発さなかった。雪は雪なりに、自分の母親の墓を前にして何か感じるものがあるのだろう。
 そして俺はかたまりの中から一歩足を踏み出し、墓の前に立った。
「イリヤ、久しぶりだな。今日はお前に会わせたい人がいるんだ」
 ちらりと振り返り、雪に合図を送る。
だが、雪はそのままの状態で固まっていて、なかなかその一歩を踏み出そうとはしない。
「雪ちゃん……がんばれ」
 その時、背中から彼女の背中を押すような言葉が囁かれる。
雪が振り返ると、そこには優しい笑みを浮かべた桜と藤ねぇ。その二人に勇気付けられた雪は、ついにその一歩を踏み出した。
「…………」
 徐々に俺とイリヤの下に近付いてくる雪を黙って見守る。
 ゆっくり、ゆっくり……とした足取りだが、ちゃんとまっすぐに俺たちの方へ進んでいた。
「……雪」
「パパ……」
 俺の傍らにようやくたどり着いた彼女の肩をそっと抱き、そして再びイリヤの方へと振り返った。
「見ろ、イリヤ。この娘が『雪』――お前の子供であり、お前が名付けた子供だ」
 雪のように白い髪、そして紅い瞳。まぎれもなく、イリヤの子供がそこにいた。
 

「はじめまして、ママ。





 ――――雪は、元気です」

 その笑顔はこの太陽のように眩しかった……







 
END







◇あとがき◇

 当然の如く、経験などないのに、知ったかぶったお話を書いてしまいました(汗) それなりに調べはしたのですが、やはりこういうのは実経験がないと難しいですね……
 そんな訳でかなり異色なお話でしたが、個人的には満足。このSSのタイトルにもなっている「雪」は自分のオリジナルですが、かなりお気に入りです(特に名前が)

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