――夢を、見た。

 それは私が見たこともない世界。見たこともない光景。されど、とても幸せな夢。
 私とシロウ――そしてその間でお互いの手をそれぞれ取る二人の子供。
 夢だと分かっているのに、その手の感触がやけにはっきりと、そして温かく私の手を包む。
 私がその子の方を見下ろすと、「彼」は私を見上げて、にかーっと元気な笑みを浮かべた。
 二人の子供の内、私と手を繋いでいるのは男の子。シロウと同じくせっ毛で、とても笑顔が似合う――そんなシロウそっくりの男の子。それを見ていると、なんだか子供の頃のシロウを見ているような気がして、とても暖かい気持ちになれた。シロウが子供の頃もこんなだったのだろうか? それとも、あんなだったのだろうか?――そんな思いが私の中で膨らんで、笑いがこぼれ、表情は自然と微笑み返すものになっていた。
 そしてその隣では、もう一人――――女の子がシロウと手を繋いで歩く。
 まだ男の子とさほど変わらぬ身長や手の大きさ。猫の肉球というものがあるが、それみたいにぷにぷにとした二人の手が重なっている様はとても可愛らしい。また、もう片方の手はシロウと繋いでいるのだが、彼女にとってはシロウの手があまりに大きすぎて、人差し指すら掴めずに小指を掴んで歩く様――それもまたとても可愛らしかった。

 日が穏やかに注ぐ遊歩道を、私たち4人が並んで歩く。あるいは、私が胸に抱いたり、シロウが肩車をしたり。
 そんな風に、必ずお互いに「触れ合い」ながら、ゆっくりと歩く。

 そう……
 ゆっくりと歩いていけばいい。自分たちのペースで。
 ゆっくりと築いていけばいい。自分たちの世界を。

 それが、私たちが夢見る……『夢』なのだから。





手を繋いで…





 暖かな陽射しに目を覚ました俺がすぐに感じた違和感。それは目の前にセイバーがいないことだった。
 俺はゆっくりと身を起こし、そして辺りを確認してみるが、やはり彼女の姿も、そして気配も側には感じられなかった。
 まだ覚醒しきれていない状態でボーっとしていると、突然身体がブルリと悲鳴を上げた。
 辺りを見渡すと、僅かに開かれた障子の隙間から今も冷たい空気が入り込んできていた。そして俺は、一旦それを閉める為に立ち上がろうとしたとき、俺の身体を更なる冷たさが包み込んだ。
 まだ春も初頭とは言え、朝は随分冷え込むんだなぁ……などと苦笑いしつつ、その鳥肌のたった肌をさすろうとしたとき、俺は自分の違和感にも気付いた。
「あ……。なんか寒いと思ったら、服を着てないだけじゃないか」
 頭の先から爪先まで、衣服という衣服を何も身に着けていなかった。つまり、今の俺は生まれたままの姿だった。
 では、何故俺はこんな姿で寝ていたのか?
 原因は一つしか思い当たらない。
 ……それは昨晩のこと。激しくお互いを求め合った夜の営み。
 俺はそれを思いだして、少なからず赤面してしまった。
「……あぁっ、もぅ! なに、朝から欲情してるんだよ、俺は!?」
 と誰に言うのでもなく、叫ぶ俺。そしてやけにスースーする自分の股間を覗き込むと、俺のムスコは朝から元気いっぱいのご様子だった。
「…………」
 俺はソレを布団で覆い直して、一呼吸。
「……さて、セイバーのとこでも行くかな?」
 今の出来事は忘却の彼方を葬り去って、気分新たに立ち上がる。
 しかし、セイバーの所に行くと言っても、場所が分からなくては意味がない……のだが、セイバーが朝にいる場所なんて分かりきっていた。だから、違和感は感じても、不安を感じるようなことは一切なかった。
 ただ、思ったことは一つ。「昨日の今日だと言うのに、律儀なヤツだよな、ホント」というような愚痴にも似た言葉だった。



 きちんと服を着てから、俺が向かった先は勿論……道場。
 最近の彼女は朝の鍛錬を欠かすことがなく、 更には「本格的に道場を開きたい」などと言ってくる始末。
 しかもその理由というのが、「私は料理を上手く作ることも出来ず、ただ消費するだけ。それではシロウに申し訳が立たない。だから多少なりとも家計の足しになれば……」という、何とも現実じみたものだった。
 まぁ、確かに、セイバーはもうサーヴァントでなくなったのに、よく食べる。それ故、食費が少々かさむというのも事実だ。
 だが、その程度どうってことはなかった。セイバーが俺の料理を楽しみにし、喜んで食べてくれるというのなら、俺は十分幸せなのだから。
 ……と告げたのだが、彼女の瞳は真剣そのもので、断ることができなかった。加えて、
「私たちは、その……『夫婦』になるのですから、私もシロウのために何かしたいんです」
 そんな言葉まで言われては、どうして断ることができようか? 否、断ることなんて出来なかった。

「おはよう、セイバー」
 サンダルを脱ぎ、裸足で道場へ上がる。陽射しは暖かいものの、まだこんな早朝では、板張りの床は痛いくらいに冷たかった。
「おはようございます、シロウ。今日は随分と早いですね」
 精神統一の最中のためか、俺に一瞥だけくれて、再び目を瞑ってしまった。
 その姿をこうやって見てみると、いかにセイバーがすごいヤツだか分かる。俺も一応は武道を嗜んでいるおかげか、今の彼女が纏っている「気」のようなものが、この冷たい空気を通してピリピリと伝わってくるのだ。
 無防備なのに全く隙がない、そんな彼女に俺は近付くこともできずにいた。
 だから、俺は脚は動かさずに口だけを動かす。
「それを言うならセイバーの方だろ? 昨日はあんなに激しかったのに……って、そうか。早く寝ちゃったから、早く起きられたのか?」
「――――ッ!?」
 ボンッという一種の爆発音にも似た音をたてて、彼女の顔は耳まで真っ赤に染まった。
「……ぁ」
 そして、周りの空気も急変し、「近寄りがたい」ものから一気に「近寄りやすい」ものになっていた。
「あれっ? どうしたんだ、セイバー? 集中が一気に乱れたぞ?」
「そ、それは……。シ、シロウが変なこと言うからですっ!」
 先程までの緊張感はどこへやら……。わたわたと慌てふためく彼女が、先程の彼女とのギャップで妙に可愛く感じた。
「変なこと? 俺なんか変なこと言ったか?」
「ち、近寄らないでください! 今寄られると……、その、まずいので」
 正座は崩さぬまま、俺から距離をとる。そして顔は俯き、言葉の語尾も聞き取れないほどに小さかった。
「え、何? 良く聞こえなかったんだけど?」
「ですからぁ、今はダメなんですって……あぅ」
 そんな言葉は聞こえない振りをして、俺は早い足取りでセイバーの元へ追いつき、その肩を押さえつけた。
「シ、シロウ!?」
「だからダメって、何がさ? ……もしかして、想像しちゃったのか? 昨晩のこと」
「――――」
 その昨晩の出来事同様、彼女の耳元にフッと息を吹きかけるように呟く。すると彼女はあの時と同様の反応を見せ、身体全身をビクンと跳ね上がらせた。
「なぁ、セイバー? 昨晩の続き……しよっか?」
「……はぁっ!?」
 驚くのと同時に彼女は俺を引き離そうとするのだが、俺がそれを妨げる。
「シロウ離し……て……ッ」
「ダ〜メ」
 彼女は離れるどころか、俺に引き寄せられ、鼻先と鼻先が重なるほどに接近した。
「シロウ、ふざけてるのですか!? こ、ここは神聖な道場ですよ?」
「……それでも、したい。俺はセイバーのこと好きだから、愛してるから、何時でも何処でも触れていたい。そう思ってしまうのは……おかしいことか?」
「その言い方……ずるいですよ」
「分かってる」
 そう……自分でもずるい言い方だと理解してながら、口にした。だが、そんなことすら口にしてしまうほどに、俺の気持ちは高揚してしまっていた。
 それは、やはり昨晩の出来事がまだ脳裏に鮮やかに焼きついているせいか、それとも今朝見た『夢』のせいか?
 どちらにしたって、もう止まれそうにはない。
「セイバーッ」
「ぁ……」
 キュッと……いや、グッと彼女のその服を掴み、抱きしめる。
 柔らかい。それに、とても良い匂いがする。ここに来る前に朝風呂にでも入ったのかもしれない。
「シ、シロウ……」
 それがあまりに気持ちよくて、まるで猫のように彼女の肩口に顔を摺り寄せた。
 ハァ、ハァァ――彼女の荒い息が俺の首筋にかかり、俺の興奮を掻き立てる。
「セイバー、セイバー、セイバー……っ」
 背中に回していた俺の手がたどたどしく動き、徐々に前面へと回る。
「シロウ、また……胸……を……」
「昨日言ったろ? 小さいのがそんなに気になるんなら、俺が大きくしてやるって」
 その穏やかな丘を捉えた俺の手がいやらしく蠢く。そしてその動きに呼応するように、彼女の口から悩ましい吐息が漏れた。
「はっ――ぁ……、っ――う……」
 横から見る彼女の姿というのも、また新鮮なものだ。そして、いつも以上に……色っぽい。
「本当にダメ……です。道場が、汚れてしまいます」
「今更そんなこと言うのだって、十分にずるいと思うぞ?」
「そんな……こと……」
 やはりセイバーの胸は豊満というには、流石に程遠いものがある。
 故に、胸を揉みしだく手は、指でというよりも、腕全体を使って動く。
 そのとき、俺はあることに気付いた。
「あれ? もしかしてセイバー……今日はブラ、してたりする?」
「――――っ!」
 胸への愛撫のせいか、それとも妙な緊張感のせいか、とろんとしていた彼女の「翠」色の瞳が大きく見開かれる。その瞳は少し潤みを帯びることで一層の輝きが放ち、まるでその名の通りの「宝石」のようにすら見えた。
 そして、そんな瞳、上気した肌をもつ彼女の表情を見れば、俺の質問に対する答えは明確だった。
「へぇ……。セイバーって、ブラ持ってたんだ? でも……」
「あっ――、ゃん」
 俺はブラを確認するために、白のブラウスごと上下に擦る。そこで感じる服と服、服と肌の摩擦。
 だが、その摩擦から感じる違和感。
 勿論、セイバーがブラをつけているということ自体が既に違和感になっていることは間違いない。けれど、そこからはそれ以上に感じられる何かがある。
「なぁ、セイバー?」
「あ――っ、くぅ…………はい?」
 何だかんだ言って、セイバーが抵抗する様子は全くなく、完全に俺に身を委ねている。その身体は熱く火照り、もし服を脱がして直接触ったら火傷してしまいそうだ。
 それでも俺は、そのブラウスのボタンに手をかけながら、その違和感の原因を告げてやった。
「このブラ、お前に合ってないんだろう? この服の中でスカスカとずれるんだけど……」 
「――――」
 シュ〜〜ッと、本当に蒸気が見えてしまいそうなほどに彼女の顔が赤く染まる。だが、可憐なほどに白い肌のセイバーの顔に朱が混じるその表情は可愛いと言うよりも、むしろ綺麗だった。
「そう言えば、セイバーってブラは持ってなかったもんな。誰かに貰ったのか……藤ねぇとか?」
「…………」
「黙ってると、こうするぞ?」
 僅かにはだけた胸の隙間からそっと手を差し込む。
「ひぅ!? シロウ……だめ……ぇ」
「じゃあ、誰から貰ったの?」
 俺の指が、彼女の鎖骨あたりを艶かしく這い回る。
 少々いじわるだとも実感しつつも、それは止まろうとはしない。それは「好きだからいじわるしたくなる」という子供の心理に良く似ていた。
「はぅぅ。それ……は……」
「それは?」
 俺から顔を背け、まるで蚊の鳴くような声で言葉を紡いだ。
「その……、桜に」
「…………」
 『開いた口が塞がらない』とはまさにこのことだ。よりにもよって、まさか桜から下着を貰っていようとは……
 藤ねぇや遠坂ではなく、わざわざ桜から貰う理由――それは一体何だろう?
「うぅ……」
 俺から少し距離を取り直し、胸元を隠すように腕を抱えるセイバー。
 その仕草からするに、やはりセイバーの「女」として意地なのかもしれない。
「はぁぁ――――。セイバー、お前ねぇ?」
「だ、だって……」
 彼女の頭を叩くように手のひらを乗せ、その髪の毛をくしゃりと撫でる。
「……ぅん」
 かき混ぜるようにくしゃくしゃにしたその髪の毛の下に隠れる彼女の表情。その表情は嫌がっているようにも見えるが、どこか嬉しそうだ。
「……ったく。そんなに気にしてんのか、胸のこと?」
「それは……、私だって「女」ですから。気にしないはずがありません」
「そういうものかね?」
「そういう……ものですよ」
 トサッと俺の胸によりかかってくる彼女の頭の重さ。それをもっと感じたくて、彼女の頭を沈み込むほどに自分の胸に押さえつけた。
 そして胸の中にあるその髪をそっと撫でたり、梳いたりしてやると、気持ち良さそうに身体を微かに震わせた。

 冷たいはずの板張りの道場の床――しかし、セイバーにこうして触れているだけで、そんなことも気にならないほどに暖かかった。身体の外だけじゃなく、身体の内側からも。
「セイバー」
「シ……ロウ」
 彼女の顎を持ち上げ、俺の方を見上げさせる。眼前に彼女のゼリーのようにぷるぷるとした唇が迫る。
 キスしたい、その唇にむしゃぶりつきたい――そう思うより早く、俺は動き出していた。
「…………」
 二人の間に言葉はない。セイバーも目を瞑り、俺のことを待っていた。
 
 トクン、トクン……
 互いの鼓動音が聞こえるほどに二人の距離が縮まっていく。
 はぁ、ハァ、ハぁ……
 互いの吐息を鼻先に感じながら、俺たちの唇が触れるか触れないかを繰り返す。
 ついさっきまでむしゃぶりつきたいと思っていたはずなのに、そんな雛鳥が啄ばむような行為が……楽しく思えた。
「セイバー、好きだ。俺はお前が、好きだ」
「私も……私だって、シロウのことが大好きです」
 今までの行為で充填してきたエネルギーを全て解放する思いで、彼女の唇に思いっきり口付け…………ようとしたのだが、

「あーっ! 士郎、こんな所にいた。もぅ……、居間にも寝室にもいないから心配しちゃったわよ?」
「え……、ふ、藤ねぇ!?」
 静かなる朝。静かなる二人の間に割って入るように聞こえたその声。それは間違いなく藤ねぇの声だった。
「――――ッ」
 俺がその声の方へ振り向くのよりも早く、セイバーは俺との距離を取る。
「藤ねぇ……何で?」
「何でって、朝だよ? 朝ごはん食べに来たに決まってるでしょ? 士郎、もしかしてまだ寝ぼけてる?」
「…………」
 あぁ、なんてマイペースなんだろうか、この人は。
 痛くなる頭を抱えつつ、俺は嘆息をもらす。
 もうこの道場にはムードは勿論のこと、緊張感の欠片すら消え失せていた。
「あれ? もしかして後ろにいるのはセイバーちゃん? なんで隠れてるの?」
「あ……。いや、これは……」
 離れただけでなく、ちょうど藤ねぇの視界から隠れる位置で、セイバーは俯き黙ったまま、ただ胸元で忙しなく手を動かしていた。
 俺はその様子を横目でちらりと流し見る。
 一つ一つ……とかけられていく服のボタン。俺は少し残念な気持ちでそれを見つめていた。
「んっ? セイバーちゃん、どうかしたの? 具合悪いとか?」
「そ、そんなことないさ! ただ、ちょっと……な」
「ふぅん」
 藤ねぇが覗き込むように見てくるものだから、俺は両手を広げ、セイバーを庇うように藤ねぇの視界を遮る。
 ……正直、こんな所であんなことをしようとしてたなんてことを、第三者に知られるのは流石にはばかられた。特に藤ねぇなんておしゃべりものに知られたら、半日も経たずして噂は大きく広がってしまうことだろうから。
「あは、アハハハハ――」

 陽も徐々に高度を上げ、少しずつでは暖かくなっていっている空気。そしてその暖かい風に乗って、開いた窓から入り込んでくる桜の花びら。
 爽やかな早春の朝。俺たちにとっては新たなる門出の朝。
 そんな朝は、俺の乾いた笑いから始まった……



◇ ◇ ◇



「……それで?」
 俺は居間の自分の席に腰を下ろすと同時に、そんな言葉を吐き出していた。
「それで?って……何が?」
 今、俺の対面の席に座っているのは藤ねぇ。さっきの出来事も含め、どうして今朝はこうも俺の気を乱してくれるのだろうか、この人は!?
 プルプルと、握った箸をこのまま握りつぶしてしまうのではないか?と思えるほどに俺の腕には力がこもり、血管が浮き出る。
 俺が朝からここまでイライラしてしまう原因。それは何も、藤ねぇだけが全てではなかった。
 この居間の雰囲気――それこそが俺のイライラの元凶だった。
「なんで……、なんで……、なんで皆いつも通りに集まって来てんだよッ!?」
 バンッと食卓を叩きながら、俺は身を乗り出してそう言った。
 すると、お茶やおかずの汁物が若干飛び跳ね、それに対しての文句が俺の対面ではない席から飛んできた。
「ちょっと、衛宮くん! 皆今は食事中なんだから、少しは静かにしてよね」
「……うぅ」
 その威圧感ありまくりの声に圧され、俺は静かに腰を下ろす。
 確かに今は食卓を囲んでの、皆の食事の真っ最中。そんな中、食卓叩いて立ち上がるなどマナー違反もいいところであり、怒られるのも至極当然のことである。
 それは分かる。分かるからこそ、俺は腰を下ろしたんだ。
 だが、納得はいっていない。何故なら……
「どうして、遠坂がここにいるんだよ!?」
 キッと睨むような視線を彼女の方へ向ける。そこには、今尚平然とした態度でおかずに箸をつけている遠坂の姿があった。
「どうして?って聞かれることがどうしてなのかしら? 私がここに座るのなんていつものことじゃない?」
「そうじゃなくてだなぁ……」

 ほんの数年前までは俺と桜と藤ねぇ――三人にしてみれば、少し広すぎる感もあった居間で食事をとっていた。
 だが、今のこの状況はどうだろう?
 その三人に加え、セイバー、遠坂、そしてイリヤ……と、食卓を囲む人数は六人と、以前の倍にまで膨れ上がっていた。しかし、食事中の賑やかさたるや、単なる倍にとどまることを知らない。
 その賑やかさは、この食卓……いや、この家には欠かせないものになっていた。
 故に、彼女がいることは何もおかしいことではない……「いつも」なら。

「俺が言いたいことはだなぁ……、今日は何の日なのかってことだよ?」
「今日? 日曜日だけど……何か特別な休日だったりしたっけ? ねぇ、桜は知ってる?」
「えっ、あ……、わ、私ですか!? えっと、そのぅ……」
 突然話を振られたことによって、少し咳き込む。そして泳ぐ瞳が捉えた先にいたのは、遠坂でも俺でもなく……藤ねぇだった。
「ふ、藤村先生は分かりますか?」
「ん? ……ハグハグ、ごくん。分かんない。ング、イリヤちゃんは……分かる?」
「わたし? わたしが知ってる訳ないじゃない、日本の休日なんて。……あぁ、サクラ、ごはんおかわりね?」
「あっ……、はい。どれくらいにしますか?」
「んっとね――半分でいいよ」
「はい、わかりました」
 と、渡り渡って、桜に戻るのだが、その桜も結局台所へ下がってしまい、話の行く先を失ってしまっていた。
 その様子を見ていた遠坂は、頭に手をやってため息をついた。
「はぁ、まったく。……それで? 結局何の日なのよ、衛宮くん?」
「……あのなぁ」
 頭抱えてため息つきたいの俺の方だ。
「俺が言いたいのは、だ。今日は『昨日の翌日』ってことだ」
「……はぁ? 衛宮くん、なに当然のこと言ってるの? まだ寝ぼけてるの?」
「だからぁ! 昨日は『俺とセイバーとの結婚式』だったんだぞ!? せめて今日くらいは遠慮できないのかよ?」
「へぇ……、ふぅん……」
「な、なんだよ?」
 意味ありげな表情を浮かべる遠坂。そして、テーブルマナーにはきちんとした彼女らしくなく、食卓に頬杖をつく。
 また、辺りを見渡せば、皆が皆箸を止め、俺たちの会話を一言一句逃すまいと耳を傾けていた。
「つまり、衛宮くんはこう言いたいわけ? 『二人の新婚生活を邪魔するな〜』って、そういうこと?」
「あっ、いやな。そうはっきりとは……」
 頬に朱が差し、熱を帯びる。
 二人きりでいるときは恥ずかしさなんて欠片も感じないのに、皆の前、かつ皆にこうも見つめられていては、流石の俺も恥ずかしさを感じずにいられなかった。
「ねぇねぇ、桜〜! 桜も早く戻ってきなさいよ。面白〜い話が聞けるわよ?」
「はい? 姉さん、何か言いましたか?」
 イリヤの小さな茶碗を片手に、桜が再び居間に姿を現した。
「はい、イリヤちゃん。……それで、何かあるんですか、姉さん?」
 ゆっくりとした動作で腰を下ろし、さらにもう一つ、俺に注がれる視線が追加される。
 それに耐え切れず、俺は隣のセイバーへと促すのだが、
「わ、私に振らないでください! ――――ングぅ」
「…………」
 その渦中のセイバーはセイバーで、恥ずかしがっているのか、緊張しているのか、はたまた暢気すぎるのか、正直理解しがたい。なにせ皆が箸を止めている中、彼女の箸だけは何故かまだ動き続けているのだから。
 全く……、なんて普段通りの穏やかな空気が流れているのだろうか、ここは。
 確かにそれはとても心地の良いものなのだが、やはり今の時期くらいは二人きりでいたかった。
 だと言うのに、こいつらときたら……
「じーーーー」
 好奇心というものが彼女らの視線からビリビリと伝わってくる。
「ぅう……」
 こんな状態では、朝ご飯もまとも食べることができない。
 そう思った俺は、ふと隣に座るセイバーの手を取った。
「……シロウ?」
 頬をリスのように膨らませた彼女がキョトンとした表情で俺を見上げる。
 そして俺はその手を掴んで、その場から立ち上がる。
「えっ、シロウ? 私、まだ食べてる最中……」
「いいからっ!」
 半ば強引に彼女を立たせようとするのだが、目の前の食事への執着心か、なかなか腰を上げようとしない。
「ほらほら、食事なら後でセイバーの好きなものをいくらでも食べさせてやるから」
「ホ、ホントですか!?」
「あぁ。だから、ちょっとこっちに来てくれるか?」
 単純と言えば単純だが、ようやくセイバーを立たせることに成功した俺は彼女の手を取ってそそくさと居間を後にした。
 その状況――周りで見つめている遠坂たちだけでなく、セイバー自身の頭上にも「?」マークを浮かぶという奇妙な状況は無視し、俺たちは彼女たちの視界から消えた。



「それで……、こんな所に連れ出してどうかしたんですか?」
 セイバーの背を廊下にもたれかけさせ、俺は彼女の顔の真横に手をついて眼前に立つ。
 その光景は、さながらドラマの1シーンのようにも見えることだろう。
「あぁ、そのことなんだけどな……」
 そこで、ちらりと横を流し見る。
 すると、廊下にひょっこりと飛び出ていたいくつかの頭が瞬く間に隠れる。
「……ったく、あいつらは。そんなに俺たちの邪魔をしたいのかね?」
「邪魔って……、何のことですか?」
「――――」
 そして彼女は彼女でまた自覚がないと言うか、何と言うか。
 彼女は物事に対して敏感すぎるところもあれば、鈍感すぎるところもある。勿論、今の場合は鈍感すぎるのだ。
 まぁ、それも彼女らしくて良いのだけれど。
「ほら、頬にご飯粒がついてるぞ?」
「え、どこですか?」
「だから、ココ」
 彼女の白い肌の上に付着した白い粒を指差し、それをすくい取る。
「――――ぁ」
 彼女の頬から俺の指へと移ったそれを、今度はその指から俺の口へと運んだ。
 白米の、炭水化物の、甘い味わいと歯ごたえが口の中いっぱいに広がる。そこに、セイバーの匂いが加味されて、さらに味わいを濃厚にしていた。
「シ、シロウはどうしてそういうこと簡単にできてしまうのですか!?」
「ンッ――、そういうことって?」
「だから、その……、私の頬についたご飯を何の躊躇いもなく、口に含む――というようなことですっ」
「え……? 躊躇うかな、普通?」
「普通って……、シロウは誰にでもそんなことをするんですか!?」
 その頬を再び膨らませるセイバー。当然怒っているのだろうけど、やはりその表情は可愛らしく思ってしまう。
「いや、ごめん。ちょっと言い方が悪かったかな? 『普通』っていうのは、そういう意味じゃないんだ」
「じゃあ、どういう意味なんですか!」
 言葉に含まれる怒気が一層強さを増してくるのだが、はっきり言って全然恐くない。
「『普通』っていうのは『夫婦』にとって、のことさ。俺たちはもう『夫婦』なんだ、しかも新婚ホヤホヤの、な?」
「あ……ぅ……」
「だからさ、朝も言ったことかもしれないけど、俺はセイバーといたいんだ……二人きりで。嫌……か?」
「嫌……ではないです。皆と一緒にいることも確かに楽しいのですけれど、シロウと二人きりでいられる方が、ずっと――」
 セイバーはキュッと俺の服を掴む。
 俺はそんな彼女の手を握り、そして顔を近づけた。
「そこで、だ。これから二人きりで……逃げないか?」
「はぁ!? 逃げ――って、んぅ!?」
「しーーっ! 声が大きい」
「す、すみません」
 彼女の手のぬくもりを惜しむ間もなく、彼女の口元に手を押し当てた。

「そ、それで……、逃げるってどういうことなんですか?」
 まだ離れていない俺の手のひらの下で彼女の唇が動き、そこにかかる吐息がくすぐったい。
「逃げるは逃げる――そのままの意味さ。この家にいたら、はっきり言って二人きりになれるのなんて寝るときくらいだろ? 俺はそんなの嫌だ。もっと長い時間セイバーと一緒にいたい。だから、ここから逃げるんだ」
「本気……なんですか、シロウ?」
「あぁ、本気も本気。今日は外に出て思いっきり楽しもう。散歩したり、食事したり、買い物したり…………いいだろ?」
「それって、もしかして……デート、ですか?」
「いや、まぁ……、そうなるの、かな?」
 ドクン――、一つ大きな鼓動が跳ねる。
 俺はなにを緊張してるんだ? 俺とセイバーはもう夫婦なんだぞ? それなのに、どうして今更デートなんかに緊張することがあろうか?
「フフッ。では、急いで逃げ出さないといけませんね? リンたちに気付かれる前にっ!」
「お、おいっ、セイバー!?」
 まるで急発進するジェットコースターにでも乗ったかのように、視界が急加速する。それは、いつのまにか握られていた手に強い力が込められ、その勢いで思いっきり引っ張られたせいだ。
「あの……っとと。セイバー、そんなに引っ張るなって」
「だって、急がないといけないんでしょう?」
「それはまぁ、そうだけ……ど、……って、うわっ!?」
 地に足がつかない――まさにその言葉の通り、気分がどこか慌しくて落ち着かない。事実、俺の足も本当に地についていなかったりもする。
「フフッ、ウフフフフ――――」
 しかし、そんな俺とは正反対に、セイバーの表情は笑みで満ちていた。
 二人きりになれるのが嬉しいのか、久しぶりのデートが嬉しいのか、それとも、単にこの妙な状況を面白がっているのか――彼女の笑う理由は分からない。
 けど、笑ってくれているのなら…………それでいい。
 原因や理由、それが大事な時もあるけれど、今はその結果があればいい。今は彼女が笑っているという『今』があれば、それだけでいいんだ。

「おーっし! 行くか、セイバー?」
「……ぇ?」
 地に足をしっかりとつけ、そして彼女の手をしっかりと握り返し、俺はセイバーと共に走り出す。
「ちょ、ちょっと、シロウ〜〜ッ!?」

 隣から聞こえる賑やかな声。
 それが俺の耳の中を優しく満たしていった。

 ……そのおかげか、背中から聞こえる遠坂たちの声にも気付くことができなかった。



「はぁ、はぁ――、ここまで、来れば……、もう、平気……だろう?」
「そう、ですね」
 ここまで、とは言ったものの、本当にここまで来る必要があったのだろうか?
 肩でしている荒い呼吸を整えながら、俺はそんなことを思う。
「……ハッ、はぁ、は――――んんっ!?」
 そんなとき、舞い散る桜の花びらが俺の鼻を塞ぎ、せっかく整いかけていた呼吸を更に乱した。
「だ、大丈夫ですか、シロウ?」
「あっ、あぁ、何とか。しかし、この程度の運動でばてるなんて、やっぱり最近運動不足かな?」
「う〜ん、そうかもしれませんね。魔術の特訓はそれなりにやっているようですが、身体の訓練は最近ご無沙汰ですからね? どうです、シロウ? 明日から早朝、私と一緒に道場で訓練しませんか?」
「えぇ!? あ、まぁ、そうだなぁ……考えて、おくよ。ハハッ」
 俺は以前にやったセイバーとの訓練を思い出し、苦笑い……するしかなかった。
 と言うのも、とにかくセイバーの特訓はシビアすぎるのだ。
 聖杯戦争の時は自分の生死もかかっていたが故、特訓に手を抜くことなど許されなかった――それは分かる。
 だが、その後の単純な体力の訓練の時も、まさに死んでしまうくらいの地獄の訓練を強いてくるのである。常に自分のペースを遥かに上回る練習量をかかせられれば、自ずと肉体に限界が来る。
 セイバーは「それを乗り越えるのが訓練なのです!」などと言うが、はっきり言って無理である。
 そして、セイバーは「道場を開きたい」などという申し出があったが、それに対しても激しく不安を感じずにはいられなかった。
 つまり、彼女が師範となり、門下生を指導する立場になったとき、そんな彼らにどれほどのスパルタ指導を施すのか? それが一番の不安の要因だったのだ。

 ……と、頭の中で脱線し始めていた思考を、俺は頭をブンブンと振って吹き飛ばした。
「ま、まぁ、そのことは置いておくとして、まずは何処へ行こうか? 駅前に行く? それとも……」
「まずはここで桜を楽しみましょう? せっかくこんなに綺麗に咲いているのですから」
「うん、そうだな。昨日も天気良かったけど、今日もすごく良いからな。それに、ちょっと早く来すぎちゃったから、お店もまだやってないだろうからね?」
「そう言えば、そうですね」
 なんて軽い笑みを交し合った。

 ある春の日の日曜の朝。時刻にすれば、9時を少し回ったところだろう。
 しかし、そんな時間にも関わらず、今日のこの「冬木中央公園」は人で溢れかえっていた。
 広場でボール遊びを楽しんでいる父子。噴水の所で待ちぼうけしている若い女性。この満開の桜の木の下で場所取りをしているサラリーマン風の男性。そこからは少し離れたベンチで穏やかに何かを話し合う老年の夫婦。
 しかし、なんと平穏な光景だろう――俺はそれを見て感嘆のため息を漏らさずにはいられなかった。
 だが、それと同時に俺の脳裏に蘇る光景。あの十年前の悲劇……
「シロウ、行かないのですか?」
「えっ!? あぁ、行くよ。悪い……」
「むぅ、シロウ。また何か考えてましたね?」
 少し低い位置にある彼女の肘が、俺の脇腹……にはちょっと届かない腰の辺りを小突く。
 
 まぁ、確かに考え事はしてた。だが、それはセイバーが思っているようなことではないはずだ。
 俺はそう思いこみ、首を横に振った。脳裏に焼きついたあの光景を振り払うように……
「シロウ。悪い癖ですよ?」
「……え?」
 握り締められた彼女の小さな手。その握力が急に強さを増した。
「そうやって、いつも『後ろ』ばかり見ていることが、ですよ?」
「俺が、後ろを?」
 突然何を言い出すのだ?――そんな訝しげな瞳でセイバーのことを見つめる。だが、返される視線はとても真剣なものだった。
「そうです。シロウは必ず後ろを見ながら歩いているんです。でも、私たちが普通歩くのは、後ろを見ながらじゃないでしょう?」
「それは、そうだけど……。だからって、それとは違う問題――」
「いいえ、同じことです。だって、『人間』というのは、『前へ進む』生き物ですから。
 辛い過去のことを、一時立ち止まって振り返るのはいい。そのことを忘れろ、とも言いません。ただ『後ろ』へ進むことだけはしてはいけない。そのことを教えてくれたのはシロウ……貴方だったでしょう?」
「セイバー……」
 俺が彼女にそんなことを言った? いつだ?
 ……いや、覚えている。忘れるはずがない。だってそれは、今セイバーが言った通り、俺が彼女に言った言葉なのだから。
「ねぇ、シロウ?」
「んっ、何だ?」
 今度はお互いに顔も合わせず、この公園の光景を眺めながら、セイバーが小さく口火を切った。
「シロウはこの光景を見て、どう思いましたか?」
「……平和だな、って。それとすごく優しい気持ちになれた」
「フフッ、私も同じです。私もこの光景を見て、すごく幸せな気分になれました。…………これでいいんじゃないですか?」
「うん? どういう、ことだ?」
「別にどうということでもありません。『今』が幸せならそれでいいんじゃないですか? そして、その先も幸せだったら、もっといいですよね? ただ、それだけのことですよ」
「ぁ――――」
 それは、同じことだった。
 俺が思ったこと――セイバーが笑っている『今』があればそれでいい。そして、『この先』は俺が彼女を幸せしてやればいい。
 俺は昨日、そして今日も改めてそう思ったはずだ。いや、そう誓ったはずだ。

 俺は俯いていたその顔をゆっくり上げる。そして、しっかりと『前』を見つめた。
「そう、だな。……ハァ。全くダメだな、俺は。いっつもセイバーに支えられてばかりだ」
「そんなことありません。私の方こそシロウに支えられてばかりです。
 何より『今』、私がシロウの隣にいられることこそが全てシロウのおかげなのですから」
「セイバー」
 その存在を確かめるように、俺は強くその手を握り締める。
 暖かさ、優しさ、そして尊さ――――この公園に流れている空気と同じものがそこから伝わってくる。
 俺はそれを守りたい。守りたいから前を見る。
 そして一歩を前へ踏み出した。
「さぁ、行こうか、セイバー。久しぶりの二人きりのデートだ。今日は思いっきり楽しもう」
「……はいっ!」
 その明るく澄んだ声が耳に心地良い。
 そんな声を頭の中で反響させながら、脳裏に思い描く。
 それは、もう過去のことではなく、今日のこれからの予定だった。





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