「おっ買い物〜、おっ買い物〜〜♪ パパと一緒にお買い物〜♪」
 ……なんて暢気な鼻歌を歌いながら、俺の手を取って歩く人物が隣に一名。
 深山の商店街をそうやって元気に歩く『彼女』の姿は、夕飯の買出しに来ている主婦たちの視線の的になっていた。そして何度となく彼女らに引き止められては、頭を撫でられたり、お菓子を貰ったりで、今日は特に上機嫌だった。
「『雪』? 今のおばさんたちにちゃんとお礼言ったか?」
「言ったよぉ! 『ありがとうございました』って。そしたら、もう一個飴くれたもん」
「…………そっか、それは良かったな」
 ハァという大きなため息とともに、俺はその小さな頭をポンと撫でた。







トライアングルパニック
(前編)







 夕暮れの商店街を俺と『雪』は手を繋いで歩く。
今日は仕事が早上がりだったおかげで、久しぶりに『雪』を迎えに幼稚園まで行ってみた。最近は仕事の方が忙しく、なかなか迎えに行ってやれない日が多かったせいか、幼稚園に俺が顔を見せた時の『雪』の喜びといったらなかった。多分、機嫌が良いのはそのせいもあるだろう。
 そして、今俺の隣で手を握っているその少女――――彼女が『雪』。俺の大切な一人娘である。
 だが……
「お母さん、あれ買ってー」
 今の俺たち同様、学校もしくは幼稚園帰りの子供を連れて歩く親子がここにはちらほら見受けられる。そして彼らのそんな会話が耳に入るたびに、俺の胸はチクリと痛んだ。
 何故なら、雪には母親がいないからである。
彼女の母親――つまり、俺の妻は、雪を出産すると同時に他界した。元々、子供を産めるような身体でなかったのに関わらず、彼女は自分の意思を貫き、この雪を出産したから……
 だが、俺はそのことでとやかく言うつもりはない。それは俺自身認めたことであり、そして望んだことだったから。
「…………イリヤ」
 その少女の名前……もう彼女の想いはあの日以来胸の奥に仕舞っておこうと決めたのに、雪がそんな光景を見るあの悲しそうな視線が俺の心を惑わせた。

 また、今日は俺が迎えに行くことが出来たけれど、大抵は桜と一緒に帰って来てもらっている。と言うのも、実は何を隠そう……桜は今、雪が通っている幼稚園で働いているからである。そのおかげで、普段から彼女に送り迎えを任せてしまっていた。
 だが、その時の雪の様子について、ある時桜は俺にこう告げた。
 ――帰宅の時間になると、雪はいつも一人だけ教室に残って外の様子を窓越しに見ているんだ、と。それも今のようなとても寂しそうな瞳で。

 そしてその肝心の雪の方を再び見下ろしてみると、彼女はいつの間にか俺の手を離れ、少し前方へと歩いていってしまっていた。しかも、スキップなんかをしているのだけれど、その背中はとても小さく見えた。
「雪……」
 やはり子供にとって、『周りと違う』ということはそれだけで障害となる。実際に俺自身もそういう経験がある。だが、その時の俺には藤ねぇが居てくれた。
でも今の雪には、俺にとっての『藤ねぇのような存在』が側には居ない。そしてそれは作ろうと思って作れるものでもない。
 ならば、どうすればいい?
「…………母親、か」
 吐き出される言葉の意味と重さ。
任されたはずなのに……、イリヤの分まで雪のことを背負っていくと決めたのに、少しだけ自信がなくなってしまう。俺がどんなに頑張っても、埋めることが出来ないものがある……そのことを思い知らされたような気がしたから。
「くそっ……、難しいよな、『親』って」
 ぐっと握り締めた拳の爪が、皮膚の中にずぷりと沈む。そして滲み出す赤いソレは、汗と混じって肌の上を這う。
 赤い……、紅い……、アカイ……
それはまるで、今俺の目の前に浮かんでいる太陽の色。そしてそれは――――宝石のような瞳の色。
「イリヤ……、いや、雪?」
 イリヤの子供であることを証明する白い髪とアカイ瞳。その瞳が今、俺の目と鼻の先にあった。
「…………っ!?」
「パパ、何してるの? ぼけっとしてないで早く行こうよぉ?」
 数十mほど前を歩いているはずの彼女が、いつの間にか俺の首にぷらぷらとぶる下がっていた。だらんとしたそんな状態でも彼女の足は地面につかず、俺の首に彼女の全体重がかかる。
「…………くぅ」
 首の裏がピリピリと悲鳴を上げる。
「あ〜、雪? 『重い』んだけど、そろそろ下りてくれないか?」
 そんな俺の一言を見逃さずに耳にした雪のその耳がピクピク動き、頬がぷっくらと膨らんだ。
「わたし、重くなんてないもんっ!」
「いや、そういう意味での『重い』ってことじゃなくて……。それにその歳はまだ『重い』とか『軽い』とかは気にしなくて良いの。今は育ち盛りなんだから、よく遊んで、よく食べて、よく寝て…………」
「むぅ! パパは何にも分かってないんだからっ」
「は、はぁ……」
 トンッと気持ちのいい音を立てて、ようやく下りてくれたかと思ったら、今度はその目の前にビシッと可愛らしい指を突き立てられてしまった。
「女の子っていうのはね、好きな人の前ではいつも綺麗でいたいものなんだよ?」
 ――――は? スキナヒト? キレイデイタイ?
 とてもじゃないが、今年5歳になる幼稚園児とは思えない発言に俺の思考回路が一時停止する。
「それにね、春にやった身体測定だと、わたしが一番『ばすと』があったんだから」
「……ば、ばす……と?」
 ……頭が痛い。一体我が娘はどこでそんな言葉を覚えてしまったのだろうか?
親バカな発言かもしれないが、俺はずっと娘のことを、その名の通り『雪』のように白く純真無垢だと思っていた。……いたのに、この始末。
 あぁ……イリヤ、ごめん。俺は父親失格だ。
 うなだれるのと同時に、下がった視線が彼女の胸部の位置で止まる。
「…………」
「…………パパ、どうしたの?」
 我が娘のことを考えると、切なくなるな。そして可哀想だ。
 俺は同情するかのように肩に軽く手を乗せる。
「パパ、怒らないから。だから言ってみろ…………誰に教えられた?」
「えっ、誰に? うぅんとねぇ……」
 顎に人差し指を当て、可愛らしく唸りながら考え込む。そしてその手でポンと相槌を打って吐き出された言葉…・・・
「……『タイガ』、だったかなぁ?」
 ブチッ――
 一瞬にして俺の額に浮かび上がった青筋が、激しく鼓膜を振るわせるそんな音を立ててぶち切れた……ような気分だった。
(藤ねぇのヤツ…………後で酷いからな)
 拳を震わせながら俺は涙ながらにそう誓った――――のだが、それで話は終わってはいなかった。
「ねぇ、パパ?」
「んっ?」
 半袖のせいで袖を掴むことの出来ない雪は、俺のズボンをくいくいと引っ張りながら尋ねてくる。
「パパ、さっきわたしの胸見て、ため息ついたでしょう?」
「な――――っ!?」
 その言葉は、別の意味で俺の拳を震わせた。
「わたし……、傷ついた」
 目の前の少女はその『ナイ』胸にそっと手を当てて、俯く。

 ……誰だ? 俺の目の前にいるこの少女は誰だ?
 ……雪か? いや、違う。彼女は『雪』じゃない。
 俺は知っている。覚えがあるんだ、この妙な作り泣きは。
「わたしはただ、パパのために……」
「うぅ……」
 良く見れば分かるが、涙は全く流れていない。もし涙まで流せるような演技が出来るなら、俺は今、彼女を子役俳優への道を歩ませるかもしれないくらいだ。
 だが、嘘だからと言って彼女に何かを言い返せる訳でもない。
 親としての性、なのだろうか? こんな『小悪魔』的な表情を見せる雪のことも甘く許してしまいそうなのは。
「えぐっ。わたし、わたしぃ…………うわぁぁんっ!」
「ちょ、ちょっと、泣くなって」
 しかもこんな場所で。こんな『噂好き』の主婦が多い、夕時の商店街の街中で。
 あぁ……イリヤ、前言撤回するよ。
「母親がいない」とか「父親の育て方が問題」とか……雪の場合、そんなのは二の次だ。一番の問題はイリヤ……『お前の娘』だってことだ。

「うわぁぁん、あーーん……」
「あぁ、ゆきぃ……」
 周りの体裁を気にしつつ、ひたすらオロオロする俺。何とかなだめようとするのだが、雪はそれに反発するように大声で泣き叫び、さらに周りの視線を集めた。
(うっ、もしかしてそんなにショックだったのか…………5歳なのに)
 女心と子供心ってやつはどうも分からない。今回はそれがミックスされているのだから余計に性質が悪い。
「あのな、雪? 俺は別に……」
 と、その白い髪に手を伸ばそうとした時、俺たちの間に割って入ってくる声を聞いた。



「可愛いお嬢ちゃんを泣かせちゃいけないよ、そこのお兄さん?」
「――――えっ?」
 ふとその声のした方へ振り返ってみると、そこには、この深山の街中には似つかわしくないようなアクセサリをジャラジャラとつけた男が立っていた。
「何か……用か?」
異物――――それに対し俺は真っ向から向き合い、そいつに視線とそんな言葉をぶつけ返した。
「おいおい、そんな怖い顔しないでくれよ。俺は決して怪しい者じゃない」
「そんな身なりで言われても、説得力の欠片もないぞ」
 雪のことを背中に庇うように立ちはだかる。そしてその雪は俺の背中をはっしと掴みつつ、俺の脇からちらりと顔を出していた。
「だから、そんな目で見るなって。俺は単なる『露天商』なんだって」
「……露天商?」
 『降参』のポーズをとりつつ、目の前の男が脇に退く。そして指差したその先――5・6mほど離れた所に、確かに男が今身に着けているようなアクセサリが所狭しと台の上に並んでいた。
そして、それを確認した俺がまたその男へと目を向けると、男は自分を指差し、激しいくらいに頷いてみせた。
 ……どうやら嘘ではなさそうだ。第一、この男が嘘をつかなくてはならない理由自体があり得るはずがない。
(いけないな。どうも雪のことになると、神経過敏になり過ぎる……)
 俺は加熱した頭を冷やし、落ち着きを取り戻してから再び彼に話しかけた。
「しかし、なんでまたこんなところで露店を? 自分で言うのもなんだが、そういう商品は『こんな』所より新都の方が売れると思うけど?」
「そうっ、そうなんだよ。最近の新都はこういうのの取り締まりが厳しくなってねぇ……、追い出されたんだよぉ」
「は、はぁ……」
 さっきの登場の仕方とは裏腹に、そんな情けない顔してすがりついてくる男。それに対し、多少同情の念も感じない訳でもない。
……が、今はそういうことは一切問題ではないのだ。
「それで、何の用……ですか?」
 一応まだ警戒はしつつ、そう尋ねる。そしたまた雪の頭に手を伸ばそうとしたが、あるべきものがそこにはなく、俺の手は空を切った。
「あ……れっ?」
 振り向いて見てみても、確かにそこに雪の姿はなく……

「わぁ、きれー」
 そんな声が聞こえたのは完全に見当違いの方向――目の前の男の後方からだった。
「雪……、いつのまに?」
 恐らく俺がこの男に集中していた時だろうが、そのあまりの機敏さに驚きは隠せなかった。
「おっ。お嬢ちゃん、お目が高い。それはねぇ……」
「おいおい……」
 そして男はあろうことか、幼稚園児相手に商売を始める始末。
すぐに止めようともしたのだけれど、雪のその夢中になって輝かせる瞳に戸惑わされ、雪に向けた手を引っ込めた。
 男がアクセサリを手に取っては雪に色々と説明し、そしてそれを雪に渡す。
初めて見る物に感動しているのか、それとも雪も女の子だからこういう物に目がないのか……どちらかは不明だが、その純真な瞳を見ていたら止められる訳がなかった。
 また、何より驚きなのがこの男である。
歳で言えば、俺と大して差があるようには見えない。だと言うのに、この親身な対応はどうだろう?
こんな所で物を売ってるよりは、桜のように幼稚園か、あるいは保育園あたりで働いてた方がよっぽど合っているように感じる。

「ねぇ、パパ? わたし、これ欲しい」
「……パパ?」
 その時、俺のことなど全く居ないかのようにさえ思っていたであろう彼がその言葉に敏感に反応し、ようやくこちらを振り向いた。
「…………」
 視線と視線がぶつかり合う。その視線――――明らかに俺を疑っているかのような視線。
「あんたの方こそ何者だ?」
「いや、俺は……」
 さっきとは対照的に、俺と雪の間に今度はその男が立ちはだかる。雪を背に庇うようにして。
(どう考えても……誤解されてるな、俺)
 俺は別に悪くも何にもないというのに、そうも真剣に見られるとバツが悪くなる。
そして俺は頭をかきつつ、その誤解を解くために一歩前へ歩み寄った。
「あのなぁ? 俺は正真正銘、その娘の父親。あんたが思っているような怪しいモンじゃないからな」
「だって、この娘は……」
 男は俺と雪の間を何度も視線を往復させる。それを見て、俺は大きくため息をついた。……「またか」と。
 では、何が「また」なのか?
 それは言うまでもない。「俺と雪が親子かどうか?」という疑問についての話が「また」なのである。

 俺と雪はその容姿の相違ゆえ、「親子」と見られることがまずない。だから今、この男が向けている疑惑の視線――それに慣れてしまうほど多くの人に見られてきたから……だから、「また」なのである。
「この娘はハーフで、しかも『母親似』なの」
 そして、その度に俺はこう答えるのだった。
 だが、本当はそんなことを言うのも嫌だった。
 だって、その肝心の『母親』はもうこの世にいないからである。
「母親似、母親似……」と言われても、その母親がいないのでは説得力に欠ける。……勿論それは、「話し相手」にじゃない。「雪自身」に対する説得力である。
 雪にとって「母親」は、写真の中だけの存在。そして俺自身、その「母親」のことをあまり多くは語っていない。
――なんで、わたしにはママがいないの?――
 いつか彼女が言ったその言葉は、今でも俺の心を締め付ける……


「へぇ。それじゃあ余計に良いモノ買ってあげないとね……『お父さん』?」
「えっ?」
 『母親』――この言葉が出るたびに気分が滅入る。だが、その気分、俯かせた顔を持ち上げようとする彼の声が俺の耳に届いた。
「この娘が母親似っていうなら、すごい美人になる。それなら、もっと良いモノ買ってあげないと……嘘だろう?」
「あんた……」
 何だろう? この男の言葉に俺は不思議な説得力を感じていた。「商売上手」というのとはまた違う……何か。
「そういえば、お嬢ちゃん。お名前は何て言うのかな?」
「ゆきっ!」
 男のそんな突然の質問にも、戸惑うことなくそうはっきりと答える。そしてその大声が俺の迷いをかき消した。
「『ゆき』って……、あの空から降ってくる『雪』のことかな?」
「うん、そう! ママがつけてくれた名前なの」
「そうか。キミのお母さんが……」
 そして男は雪の頭に手を乗せ、その髪の毛をくしゃっと撫でる。その行為に、雪は気持ち良さそうに目を細めた。
「そんな雪ちゃんにピッタリの小物があるんだけど、どうかな?」
「ホントッ!?」
 その言葉に雪は一層顔をほころばせ、飛び跳ねるくらいにはしゃぐ。

 その笑顔に男は微笑みつつ、台の上の『何か』を探し始める。そして俺はその男の背中に声をかけた。
「えっと……、その……」
「……良い娘さんだな?」
「えっ?」
 背を向けてはいるが手は動かしたまま、俺に言葉だけ向ける。その背中はやはり外見とは裏腹に、とても寂しげなオーラのようなものを放っているように見えた。
そしてその男はぽつり、ぽつりとその思いを口にし始めた。
「俺にもあの娘くらいの子供がいたんだ」
「『いた』……って、まさか?」
「あぁ、死んじまったよ。嫁さんと一緒に……2年ほど前に交通事故でね。全く……くやしいよな、交通事故ってさ」
「…………」
「『守ってやる』――そう約束してたんだ。それなのに俺がしたことなんて電話を受けて病院に駆けつける……それだけだった。そして二人の死に目にも会えず、会えたと思った時の二人はもう真っ白な顔をしていたよ」
 苦笑混じりにそう言う言葉が耳に痛い。
 だって、俺だってそうだから。「守ってやる」――そう言ったのに、俺はイリヤを……

 だが、そんな俺のことを見透かしたように男は俺の肩に手をやった。
「だからさ、あんたの娘さんは幸せにしてやるんだぞ……『生きてる』んだからな」
「あ、ああ……」
 『肩の荷が下りた』とはまさにこのことだろう。肩に置かれたその手が強張った気持ちをすっと落としてくれたような気がした。
親近感……というのは流石に失礼な言い方かもしれないが、初めて出会ったこの男の言葉は俺の胸の中に深く届いた。
『人は見かけによらない』
こんな外見をした男にも、何か思う過去があり、想いがある。そんなことも考えずに、俺は偏見だけで、初めこの男を変な目で見てしまったことを恥じた。
「こんな見ず知らずの奴にわざわざ、その、ありが…………」
「っという訳で、娘さんには是非これを!」
「はぁ?」
 突然振り向いたのと同時に男はその手を突き出し、俺の眼前へと迫らせた。
「な……なに、コレ?」
「見て分からないか? 指輪だ、ゆ・び・わ!」
「いや、それは流石に分かる。俺が聞きたいのは、『何で』指輪なのか?ってことだ。まだ幼稚園生だぞ、雪は」
「だから?」
「だから……って、あのなぁ? そんな指輪が雪の指に合うわけがないだろう? せめてペンダントとかの方が良いと思うんだが」
「なら、これをチェーンを通してペンダントにすれば良い」
「…………」
 何となく睨みつける俺とそれを笑って返す男。
宝石などもついて見るからに高そうなその指輪を売りつけようとする魂胆が見え見えだ。もしかするとさっきの話も商売のための作り話……なんて思いたくなってしまうほどの豹変振りに辟易としてしまった。
「でもな、俺がこの指輪にこだわるのは何も『値段が高いから』って訳じゃない。この娘に似合うって言ったのは理由があるからなんだ」
「雪に似合う理由? ……どんな?」
「この指輪の名前――――Preneigeと言ってね、日本語に訳すと『新しい雪』という意味なんだ。どうだ、まさにその娘にピッタリの指輪だろう?」
「ぬぅ、それは……」
 確かに、ピッタリだった。あまりのピッタリさに言葉を失ってしまうくらいに。
「わたしと同じ名前なの、その指輪?」
 そして当然の如く、興味を持ち、瞳を爛々と輝かせる雪。術中にハメられたと言えば、まさにそうだろう。
 だが、雪のあの笑顔はどうだ? あんなに喜んで……
そんなに嬉しいのか、同じ名前であることが? そんなに好きなのか、『雪』という名前が?
「どうだい? あの笑顔のためと思えば、安い買い物じゃないか?」
「やっぱみかけによらず、商売上手だな……あんた」
 二人、その笑顔を見つめながら、お互いの顔は一切見ずに言葉を交し合う。
「褒め言葉としてとして受け取っておくよ」
「…………ハァ。それで……いくらなんだ、あの指輪?」
 その時の男の顔と言ったらなかった。「してやったり……」と口元を歪ませる顔が妙に憎らしくて。
そして即座に俺の耳元にその口を寄せ、それを口にした。
「はぁっ!? なんでそんなに高いんだよ? 普通の宝石店並みの値段じゃないか!?」
「仕方ないだろ? このプレネージュは一応名のある『マリッジリング』なんだから」
「マリッ……って、これ、婚約指輪なのかっ!?」
「あぁ、そうだが……?」
「そうだが、って……、あんたは自分の娘に婚約指輪を贈れって言うのか?」
「そんなのは単なる名目上の話だよ。例えおもちゃの指輪だって婚約指輪になる」
「極論だ……」
 とんでもない奴だった。『単なる名目』と言うが、親が子に婚約指輪を贈るなんて名目上であってはならない。あってはならないのだが……
「パパァ……」
 そんな瞳で見ないでくれ、雪。
せつなげの少女の瞳が俺の目を釘付けにし、そして胸に絡みつく。
「パ……パ……? えぐっ……」
 あぁ、泣かないでくれ、雪。そんな瞳で見続けられたら、俺は……

「どうする、『お父さん』?」
「…………」
 顔は見えないが、明らかに笑っているであろう男の声が隣から聞こえる。
ハメられたという気がしない訳でもない。だが、例えそうだとしても、俺はやっぱり雪の笑顔が見たかったから……
「わかった。買おう」
「毎度っ!」
 高い買い物だ。男が喜ぶのは無理もない。でも、俺の視界には男の影はちらりとも入らない。
「パパッ!」
 そう……。俺の目にはその少女しか映ってはいない。そして俺との距離を一気に詰め、勢い良く胸に飛び込んできた。
「おっ……、と」
 ものすごい勢いだったのに関わらず、胸に受けた衝撃は極めて軽い。そして腕にかかる彼女の重さも同様に軽い。
まぁ、当然か。胸にすっぽりと収まってしまうほどに小さな雪の体重は『10kgちょっと』といった大変小柄なものだから。
「パパ、ありがとう!」
「ほら、そんなにはしゃいでると失くすぞ? コレも同じ『雪』なんだから、大切にしてやらないとダメだぞ?」
「うん、うん。わかってるっ」
 痛いくらいに俺の頬に自分の頬を摺り寄せてくる。そんなはしゃぎよう……、俺の言うことなんて完全に聞いてないんだろうな。
 だが、それでもやはり嬉しいものだ。娘の笑顔というものは。
そんな心からの笑顔は、お金には代えがたいかけがえのないものなのだと強く実感できる。
「パパ、だ〜いすき!」
 ちゅっ……と頬に触れる柔らかい感触。そしてこの笑顔。それらはとても新鮮なものでもあったが、やはりどこか懐かしかった。
「ホントに雪はママにそっくりだな」
 そう言って、雪の髪を梳くように撫でてやると、まるで猫のように、気持ちよさそうに目を細めた。
そういや、イリヤは猫が嫌いだったなぁ――なんてことを思い出しながら、しばらくの間、俺は雪のことを胸の中に抱き続けていた。



「それじゃ……」
「はい、確かに」
 財布からなけなしの金――万札を数枚取り出して男に渡す。
『金には代えがたい笑顔』とは言ったものの、この出費は何気に痛手である。
「パパ、えへへ……」
 俺の腕の中には相変わらず無邪気な表情で笑みを浮かべている雪。
その微笑ましさとは裏腹の、経済的な厳しい現実に呆れながらも、俺も彼女に微笑み返した。
「じゃあ、雪。そろそろ帰ろうか? 多分、藤ねぇも帰ってるかもしれないしな」
「うん。わたし、お腹ペコペコ。きっとタイガもお腹すかせて待ってるよ?」
「ああ、そうだな。きっと怒ってるぞ、藤ねぇ。お腹がすきすぎてて、雪のこと食べちゃうかもな?」
「――っ!?」
 そう言った途端、雪は俺の腕の中でビクンと跳ねる。
そして俺はその反応が面白くて、つい『いじわる』を重ねてしまうのだ。
「実はな、藤ねぇはお腹が減ると『虎』になっちゃうんだ。だから、今家に帰るとぉ……」
「ひぅっ!」
 今度は身体を震わせ、俺の胸に顔を埋めてしまう。
「フフッ……」
「……あんた、何気に酷いことするな?」
「いいんだ、俺だけは雪のことを苛めても」
 そして俺は、ブルブルと震える彼女の頭を撫でる。ゆっくり、そして優しく……
「うぅぅ……」
「大丈夫だ、雪。もし藤ねぇが雪のこと食べようとするなら、パパが必ず守ってやる。だから、心配するな?」
「ホント?」
「あぁ、ホントだ。何があっても、パパは雪のことを守る。約束する」
「うん。パパァ!」
 そうして首に回された彼女のその華奢な腕は、俺でも引き剥がせないくらいに固く、また温かくもあった。

「ふぅ……、『嘘も方便』か。 まっ、それで二人が良いって言うんなら、何の問題もないけど」
 そんな二人の様子を見ていた男がそっと呟く。

「白の妖精が二人の下に舞い降りんことを……」

「えっ、何?」
 突然耳に飛び込んできた、その聞きなれぬ単語に引っかかる。
「今、何て……?」
「あぁ。さっきの指輪の……まぁ、イメージってとこかな? さっきも言ったように『プレネージュ』はフランス語で『新しい雪』を意味する。それを『白の妖精』と例え、幸せを運んで舞い降りる――そんなイメージから造られた指輪なんだよ、それは」
「白の……妖精……」
「あくまで『イメージ』の話さ。そんなに真に受けるなよ…………って、どうかしたのか?」
 俺は、まるで金縛りにでもあったかのように身体が動かなくなってしまっていた。
「ハハッ、ハハハハ……」
 そしてこみ上げてくる笑い。
「ど、どうしたんだ、急に!?」
 どうしたも、こうしたもない。笑わずにいられるだろうか、ソレを目の前にして。
『名目』、『イメージ』――所詮はその程度のものかもしれない。けれど、俺はソレに『運命』を感じずにはいられなかった。

「まったく、出来すぎた話だよな――――イリヤ?」
 天を仰ぐ。
斜陽の紅が目に刺さって、痛いくらいに眩しい。そして、熱い。

 雪が降るにはまだまだ早いこの季節。 
 けれど、『雪』の下には確かに雪が――白の妖精が舞い降りていた。
「イリヤ、見守っていてくれ……俺たち二人のことを」

 その言葉に応えるかのように、雪の手元にあるその指輪はきらりと陽に負けないくらいに輝いた。







 
to be continued…







◇幕間◇
・ 衛宮雪(5歳)

 SS「夏に降る『雪』」で誕生した士郎とイリヤの子供。
現在は幼稚園に通っており、桜もその幼稚園で働いていたりする。
衛宮家では、この少女をとりあって、桜と藤ねぇがいつも奮闘している……らしい。


……と、勝手な設定を書き記してみる。