「フフフッ……。それで雪ちゃん、ご飯の時、先輩の膝の上から離れなかったの?」
「うぅ、だってぇ……」
 晩御飯を食べ終えた桜と雪は今、お風呂の中で話に興を咲かせていた。そして、その話というのがさっきの晩御飯の出来事のことである。

 衛宮家での食事は大抵いつも4人で取っている。一応この家の主である俺、衛宮士郎と愛娘の雪。そしてこの家をもはや半分自分の家として生活している桜と藤ねぇの4人である。
 そんな4人が食事を取る時、雪の隣を争って桜と藤ねぇが色々と奮闘する。つまり、俺とその二人のどちらかの間に雪を挟むようにして食事している、という訳である。場合によっては、俺の席すら取られてしまうことも少なくはなかった。
 だが今日に限っては、雪は誰かの隣ではなく、俺の膝の上で食事を取ることにし、そこから全く離れようとしなかったのだ。しかも、藤ねぇに鋭い視線を向けながら……
「藤村先生泣いてたよ? 『雪ちゃんが怒ってるよ〜』って」
「だって、だって……」


 雪が突然そんな行動に出た――その原因は勿論、今日の夕暮れの商店街での出来事が担っていた。
――お腹がすきすぎて、雪のこと食べちゃうかもな?――
――藤ねぇはお腹が減ると『虎』になっちゃうんだ――
 なんていう冗談話を完全に信じ込んでしまった雪は、食事中終始、藤ねぇのことを警戒し続けたのである。
 正直そこまで強く信じ込むとは思えなかったため、その嘘をあまり否定しなかったのがやはりまずかった。
「じゃあ、私、明日は早いからもう帰るね」
 そう言って家を後にした藤ねぇの背中はとても寂しげだったのを覚えている。それを見て、藤ねぇには悪いことをしたな……と俺は深く反省した。


「もう、先輩ったら。冗談ばっかり……」
「……じょうだん?」
 腕の中の雪がくるりと振り向いて桜の方を見上げる。それにつれて、雪の白い髪の毛がお湯に広がりを見せた。桜はその糸のように細いソレを梳くっては指の隙間からすり抜けていくのが楽しくて、何度も繰り返した。
「うそ、なの?」
「そうねぇ……。雪ちゃんはすごく可愛いから食べたくなっちゃうのも分かるけど、流石に『虎』にはならない、かな?」
「むぅ……」
 頬を膨らませ、ブクブクとお湯の中に顔の半分を沈める。
その姿はやはり可愛くて、桜は自分の胸にその小さな頭を寄せ、耳元で囁く。
「でもね、雪ちゃん? 先輩は何もいじわるでそんなこと言ったわけじゃないと思うの。その時、他に何か言ってくれなかった?」
「他に? うぅ〜と……」
 ジャブッとお湯の中から顔を出し、顔を桜の方へ反転させる。そして、ぽけーっとした表情で考え込んだ。
「……『守ってくれる』って言ってた」
 そしてぽつりと……、顔を赤く染めながらそう言った。恐らくその肌の赤は単に湯の熱さからくるだけのものではないだろう。
「ほらね? 先輩は雪ちゃんを怖がらせるためだけに、そんなことは絶対に言わないよ。だって、雪ちゃんは先輩にとって一番大切な人だから……」
「…………」
「雪ちゃんも好きだよね、先輩のこと?」
「……うん」
「だったら、信じてあげて。先輩は『例え虎が出てきても、雪ちゃんのことを守ってやる』って、きっとそう言いたかったんだよ」
「サクラぁ……」
 そうして雪は桜に抱きつくように手を回し、その豊満な胸の谷間に顔を埋めた。
「よしよし……」
 桜の方も片手でその頭を自分の胸元に押し付けなら、もう片方の手でその髪を撫で続ける。

 腕の中のこの小さな少女。同じ幼稚園の自分の教え子ということもあり、彼女と接している時間は他の誰よりも長い。実の父親である衛宮士郎、その人よりもである。
 だから今、桜はこう考えてしまう。雪ちゃんが自分の子供だったら……と。
 いけないことだってことくらいは分かっている。この娘はイリヤちゃんが自分の命をかけてまで産んだ、先輩とイリヤちゃんを繋ぐかけがえのない証だということ。
それなのに、何にもしていない自分がこの娘の母親を気取るなんて、あってはいけないことだと分かっているのに……

「サクラがママになってくれたらなぁ……」

 この娘はこんなことを呟くのである。
「雪……ちゃん……」
 イリヤちゃんに対する罪悪感と雪ちゃんに対する愛おしさ。その間で揺れる心の葛藤が、こんなにも胸を締め付ける。
「雪ちゃん、私ね……」
 言ってしまいたい。言って、この苦しみから解放されたい。

「でも、やっぱりダメ」
「えっ?」
 だが、先手を打たれてしまった。
確かにそれは真実なのだが、自分は何を馬鹿なことを考えてしまったのだろう……と、反省し、そう冷静になれた。でも流石にこうもはっきりと言われてしまったのには、少し堪えた。
「そう。ダメだよね、やっぱり」
「うん、ダメぇ」
「…………」
 さっきまで泣きそうだった少女の表情が突然笑みに満ちる。そんなあまりに突然な切り返しに、桜は上手く対応しきれなかった。
「えっと……、雪ちゃん?」
「ホントはサクラにママになって欲しいけど、それってサクラとパパが『結婚』するってことだよね?」
「け、け……けっこんっ!?」
 その単語にさっきの雪以上に顔を赤く染め、その両頬を押さえながら、これもまた同様に顔を湯の中へと沈めていった。
「あー、サクラのお顔が真っ赤っかだぁ」
「……ブグブグ」
 雪の母親になるということはつまり、先輩の『妻』になるということ――――それは全く考えていなかった、というのは流石に嘘になるが、少なくともさっきまでは忘れていたことだった。しかし、雪ちゃんのその一言で火がつき、まさに燃えるように顔が赤くなってしまっていた。
(私が先輩の妻。そんなの……)
 頬に触れていたその手がすかさず顔全体を覆うように隠す。『顔から火が出る』くらいのその恥ずかしさを覆い隠すために。
 しかし、雪は桜のそんな様子に目を丸くしながらも、話を続けた。
「えと……、だから、ダメだよ? サクラがわたしのママになるのは」
「うっ……」
 しかし、再び釘をさされることによって、ある種のトリップから引き戻されてしまった。そして顔を覆った手の指の隙間を開け、目の前の少女のことを見つめる。その少女は、満面の笑みを浮かべてこう言うのだった。
「だって、パパのお嫁さんはわたしがなるんだもん」
「えっ?」
 なんとも子供らしい、そのあまりに無邪気な言葉に、桜はキョトンと呆けてしまう。そして思う。
(なんだ、そういうことか……)
 不謹慎とは分かっているが、それでもそう安堵のため息をこぼしてしまう自分に、桜は驚きとバツの悪さを感じもした。
でも、決して自分は雪に嫌われているわけではない、ということが分かっただけで良しとしようとした。
 ……しようとしたのだが、その少女はなんとさらなる追撃をかけてくるのだった。
「パパに今日、『婚約指輪』買って貰っちゃった。……えへへ、いいでしょ?」

「え、ええぇぇ――――――ッ!?」







トライアングルパニック
(後編)







「なっ!?」
 ガチャン――突然俺の耳を襲った大声のせいで、俺は手に持っていた皿をつい落としてしまっていた。

 食事を終えた俺たち4人は、食後、テレビなど見ながら少しの間団欒を楽しんだ。
 しかし、藤ねぇが明日の都合のせいで一人帰ってしまったのをきっかけに、残りの3人も腰を上げた。そこで桜が雪をお風呂に入れてくれるというものだから、俺はその間に食器の後片付けでもしてしまようと台所に立っている、という次第である。
 そんな訳で、俺はせっかく洗ったばかりの食器を一枚、落として割ってしまったのだった。

「な、なんだ、今の声? 桜の声……だよな?」
 しゃがみこみ、割れた破片を拾いながら、誰に問うのでもなくそう呟く。そしてその声のした風呂場の方へちらちらと視線を向けながら、危なげな手つきで作業を続ける。
「……っ、痛って」
 そんなだから案の定、手を傷つけてしまっていた。ツツーと流れる赤い血に一瞬見とれた後、指ごと飲み込むように口に含む。
 ……それほどまでに俺は動揺していた。
だって、あの桜があんな大声で叫ぶなんて、よっぽどのことがないとあり得ないから。
「……くそっ」
 今のは驚きの声。何か危険なことがあったわけではないと思うが、やはい気になってしょうがなくなった俺は、半ば放棄する形で台所を後にした。





「こ、こんやくゆびわ?」
「うん、そう。白く透き通った綺麗な宝石が付いてるの。それでね、わたしと同じ名前なの」
「白く透き通った宝石で、雪ちゃんと同じ名前……?」
 白い宝石と言えば、パール。その丸い形は『雪』に見えなくもない。また、他にもムーンストーンなど、白くて綺麗な宝石は多い。
けれど、どれもどこか違うような気がした。と言うよりも、もっと相応しいものがあるから、違うと思ってしまったのかもしれない。
「……ダイヤモンド」
 まさに宝石の王様、ダイヤモンド。婚約指輪と言えば、当然これに他ならない。それに、『雪』の結晶『ダイヤモンドダスト』などからも、同じ名前と考えてもおかしくはない。
 ……って、なんでこんなに真剣に考えているのだろう、私は? と、自分の頭を小突く。
(いくら自分の娘が可愛くたって、まさかそんな婚約指輪を贈るはずがないもの)
 常識で考えれば、それが当然だ。その指輪はきっとおもちゃか何かに違いない……そう思うことで決着をつけようとしたのだが、なんだか胸はすっきりとしなかった。


 その時、脱衣所の戸が鳴った。
「桜っ!? 今、何か大きな声が聞こえたんだけど……大丈夫か?」
「え……、あぅ……」
 戸を叩いたのは先輩だった。恐らくさっきの声を聞いて駆けつけて来てくれたのだろう。
だが、指輪のことばかりに気がいってしまっていて、さっきものすごい声で驚いてしまったことを失念していた。しかも、先輩が側に来たことによって、さっきの『結婚』のことが再び頭の中に蘇ってしまい、また顔を赤らめてしまった。
「……桜? おい、ホントに大丈夫なのか?」
 戸を叩く音が強さを増す。だけど、恥ずかしくて声が出せない……そのことが余計に先輩を心配させてしまうのに。
 だが、そんな私に代わって、返事をしてくれたのは雪ちゃんだった。
「だいじょうぶだよ、パパ」
「雪か? 返事がないんだけど、本当に桜は平気なのか?」
「うん…………ただ、お顔が真っ赤なだけだから」
「「……え?」」
 そんな素っ頓狂な返事は先輩だけでなく、私の口からも同時に発せられた。だってそんなことを言ってしまったら、先輩はさらに心配してしまう……そういう人だから。
「あの、先輩? 私は別に何とも…………」
 だから、そう声をかけようとしたのだが、時すでに遅し。ものすごい形相をした先輩が脱衣所の戸を開け、そしてこのお風呂場の戸まで開け放ってしまっていた。

「桜ッ、大丈夫か!? しっかりしろ――――って、アレ?」
 私たち二人を目の前にして硬直してしまう先輩。勿論、『裸』である私たち二人を前にして、である。
「あぅ、あぅ、あぅぅ――――」
「え、あの、これは…………なんで?」
「なんでって、それは……」
 先輩の瞳が私の身体を滑るように眺めてくる。その視線が決していやらしいのものでないことは分かっているのだが、流石に裸を見られるのはちょっと……
 すると、突然雪ちゃんがその場から立ち上がり、先輩に向かって手を差し伸べる。
「パパ〜、パパも一緒にお風呂入ろうよ?」
「えっ、雪? 流石にそれは……マズイだろ」
「えぇ〜? だって、さっきサクラがパパと『結婚』したいって言ってたんだよ?」
「はっ?」
 その言葉に先輩は目を丸くして驚き、もう一度私のことを見つめてくる。先輩がそんな風に驚くのも当然だ。だって、私だって驚いたのだから。
「えっと、あの……ですね、先輩?」
 しどろもどろになりながらも、何とか返事をしようと言葉を探す。けれど、こんな状況でまともな答えなど出てくるはずもなかった。
 そうして困る私の表情を見てか、先輩は私から目を逸らしてくれた。
「と、とにかく……ゴメン。その、なんだか覗きみたいな形になっちゃって」
「いえ、そんな。私の方こそ、余計な心配をかけさせてしまって。それにお見苦しいものの見せてしまって……」
「み、見苦しいなんて、そんな……訳、ないさ」
 まるで磁石の同じ極が反発するようにお互いの背を向けてしまう私と先輩。お互いが感じている気まずさと恥ずかしさが二人の間に隔てを作ってしまっているのが自分でもひしひしと感じていた。
(もぅ……、お風呂からあがったら、どんな顔して先輩と話せばいいの?)
 そんな風に思い悩む二人――その間に流れる妙な空気の中、「我関せず」と言うか、全く状況を把握しておらず、キョトンとしている少女が一人、そんな二人の間で視線を交互に彷徨わせていた。
「パパ? サクラ? 二人ともどうしたの?」
 この無垢な少女は自分が言った発言がこんな状況を引き起こしたなどとは微塵にも思っていないのだろう。
 だが、全く分かっていない彼女だからこそ、その磁石の極をまた反転させるのも容易だったのだ。
「二人とも、ケンカしちゃ、メッだよ?」
 そう言って雪ちゃんは、お湯の中から私の手を取る。
「……雪、ちゃん?」
 今度はもう片方の手で背中をこの風呂場に背中を向けている先輩の手を取る。
「……雪?」
 そして彼女は、その手をまるでおもちゃのパーツを組み合わせるかのようにして触れさせた。
「あっ」
「――っ!?」
 お互いの指と指がちょこんと触れる程度の些細な接触。そんな触れ合いだけでも分かるくらいの先輩の大きな指。恐らく水洗いをしていたであろうはずのその指は、何故かお風呂に入っていた私のよりもずっと温かかった。
「仲直り、して?」
「いや、雪? 俺と桜は別に喧嘩した訳じゃ……」
「そうよ、雪ちゃん。私が先輩と喧嘩なんてするはず……」
「な・か・な・お・りっ!」
「……ハイ」
 雪ちゃんのそんな態度。まだ子供でありながらも、きっちり言うべき時は言うその態度は、どこかイリヤちゃんに似ていた。親子なのだから当然と言えば、当然なのだけど。
 だけど、雪ちゃんが厳しく言って先輩が何も言い返せなくなってしまうこの光景は、私にとっても懐かしいもののように感じられた。

「それじゃあ、先輩? 『ゆびきり』でもしましょうか?」
「えっ……、『ゆびきり』?」
「何か、おかしいですか?」
「いや、別におかしいなんてことは。ただ……」
「ただ?」
 そこで言葉を失ってしまう先輩。やはりそんなにおかしかった……いや、子供っぽくて呆れてしまったのだろうか? 『ゆびきり』をするなんてこと。
 でも、ならどうして先輩はそんな寂しそうな顔をするの? なんでそんなに泣きそうな顔をするの?
これじゃ、本当に喧嘩したみたい。それも私が一方的に苛めてる……そんな感じがしちゃうじゃないですか。
「……いや、なんでもない。『ゆびきり』、しようか?」
「先輩……」
 そしていつもそうやって、周りの人には迷惑をかけないよう、何事もなかったように振舞うんだ。
そんなだから……、先輩がそんな人だから、私は……
「はい」
 それに気付かない振りして笑ってなくちゃいけないじゃないですかっ!
 
 そうして私は震える手で、先輩の方へと小指を差し出したその時に気付いた。先輩の指が赤くなっていることに。
「先輩? 指……どうかしたんですか?」
「えっ、これは……。ちょっと皿を割っちゃって、その時に、ね」
「もしかして、私のせいですか?」
「な、なんで? 単なる俺の不注意だよ。桜のせいのはずがある訳ないじゃないか」
「だって、先輩がお皿を落とすことなんて滅多にありません。だからきっと、わたしのせいで驚いて……」
 その言葉に先輩の身体がピクリと震える。きっと図星なんだろうと思う。それでも先輩は笑うんだ。背けていた顔をこちらに向けて……
「ばーか。桜の方こそ、そういうの悪い癖だぞ? 何でもかんでも『自分が悪い、自分のせいだ』って考えるのは。
 俺たちは人間だ。確かにミスだってする。本当に桜が悪い時だってあるかもしれないけど、俺だって同じだ。
 でも、その逆の時も桜は同じだ。本当に桜が良いことしているって言うのに、まるで他の人の手柄のように思わせる。それは別に悪いことじゃないけど、『自分がやった』という自信と誇りだけは持って良いと思うんだ」
「どういう、ことですか?」
「その……なんだ? さっきさ……」

 そう言いかけたところで、突然二人の間を別の言葉が遮った。
「パパ、寒いよぉ」
「えっ?」
 私はそこでようやく周りの状況に気付いた。お風呂場の戸は全開。しかも廊下に面した脱衣所の戸も全開。そしてお風呂場では私と先輩が向き合って立っている――――そんな状態。そこで雪ちゃんだけがお風呂の隅でプルプルと震えていた。
「ご、ごめんね、雪ちゃん!」
「すまん、雪!」
 そして二人同時に雪ちゃんの傍らに寄り添おうとする……のだが、その時先輩の顔が私の目と鼻の先まで接近していた。
「せん……ぱい……」
「桜……」
 溢れ出して来る想い。止めることなんて出来ない。
 やっぱり私は、この人が好きなんだと、再確認させられた。
「あぁ……、桜?」
「はい」
 先輩の手に力がこもり、私の肩を痛いくらいに掴む。でもその手からは、先輩の真剣さが痛みとともにひしひしと伝わってくるようだった。
そうして私自身もあまりに必死だったため、ただ一つ妙だった先輩の様子――――先輩の視線が変に泳いでいるところに気付かなかったのだった。
「前……、完全に見えてるんだが」
「へっ?」
 一瞬呆然……その後機敏に反応し、自分の身体を確認する。
「…………」
 だが確認するまでもなく、私の身体は裸体。上から下まで一糸纏わぬ姿――――そう下まで、である。
「き……」
「……き?」
 雪は桜の言葉を首を傾げながら繰り返す。そして……

「きゃあぁぁぁ――――――っ!!」
 私は悲鳴とともに、『つい』先輩に桶を投げつけてしまっていた。
「いや、いやぁ……、見ないでくださいっ!」
「見ないっ、もう見てないからっ!」
「ふぇ〜ん……」
 先輩が勢い良くお風呂場の戸を閉めるの音と時同じくして、彼の頭に私が投げた桶が心地良い音を立てて命中していた。



「先輩に見られた、先輩に見られた、先輩に見られた……」
 恥ずかしい。ううん、恥ずかしいなんてものじゃない。まさか先輩に生まれたままの姿を見られちゃうなんて…………、もう死んじゃいそう。
 もう先輩はいないと言うのに、戸に背を向け、湯船の水面が鼻の所に来るくらいまで潜る。
 顔が火照ってしまって、ものすごく熱い。多分、この湯の温度よりも熱いかもしれない。湯の中の私の口から出る気泡は、まるで沸騰した水の気泡のようにも見えた。

 そんな状態の私を、目をパチクリさせながら見下ろす少女が一人、私の後ろにぼけーっと立っていた。そして、その少女は一体何を思ったのか、小さな両手でお湯をすくい、私の後頭部めがけて撒いてきたである。
「ちょ、ちょっと、雪ちゃん? どうしたの?」
 何事かと思って、振り返った私の顔面にもう一度お湯がかかる。雪ちゃんの手が小さいおかげでかかる水量は大したことないのだが、こうも見事に顔を捉えられると、流石に驚かざるを得なかった。
「えいっ、え〜い!」
「雪ちゃん? ちょっと……、やめて」
「ダメぇ。これは『罰』なんだから」
「『罰』って、何の? ……きゃっ!」
 それは何度も何度も繰り返され、もはやお湯をすくってかけると言うよりも、湯船のお湯をそのまま相手にかけるという感じに、雪ちゃんは私への攻撃の手を緩めなかった。そのせいで、せっかく洗った髪も顔もお風呂のお湯でびしょびしょ。まるでプールかどこかで水遊びをしているような感じになってしまっていた。
「パパはわたしと結婚するの! だから、サクラはパパを『ゆーわく』しちゃ、メッなの!」
「ゆ、ゆーわく……って、私は別にそんなこと……」
「したもんっ! パパ、わたしの身体見ても何ともないのに、さっきサクラの身体見たら、お顔が真っ赤っかになってたもん!」
「うぅ、あれは……」
 あれは不可抗力と言うか、何と言うか……。とにかく、あれは私だって恥ずかしかったんだからっ!
「むぅ……、えいっ」
「わぷっ!?」
 まさか私が反撃してくるなんて思いもしていなかったであろう雪ちゃんは、ぽかんと口を開けて呆けてしまう。そしてその前髪や鼻の頭からはかけられた水滴がポタリポタリと落ち、湯に微かな波紋を作っていた。
だが、その波紋もすぐに崩れてしまっていた。何故ならそれは、水面が震えているせい。雪ちゃんの身体の震えに合わせて、水面も振動し、波紋を歪ませたのである。そして勿論、彼女の身体の震えというのは……
「もー、怒った! サクラには絶対に負けないんだから!」
「私だって、私だって……」
「それ、それ、それぇ〜っ」
「きゃっ、やったな! お返しよ……、えいっ!」


 そんな賑やかな声を、衛宮士郎は廊下で一人、脱衣所の戸に背をもたれかけさせながら聞いていた。それはまるで子供同士の遊びのようでもあり、また親子同士のスキンシップでもあるようだった。
「親子……か……」
 彼はぽつりと呟きながら、その場にズルズルと腰を落とす。

 こんなにも騒がしい声なのに、妙に落ち着きを覚えてしまうのは何故だろう?
 多分それは、彼の心の奥底でいつも求めていたモノだから。彼が、本当はイリヤという少女とともに願った『夢』。「父」がいて、「母」がいて、そして「子」がいる。いつか夢見た家族の団欒。
 それが叶った瞬間のように思えたから……
 
 だから彼は、しばしの間、その声をまるで癒しの音楽を聴いているかのような穏やかな気分で聴き続けることにしたのだった。



◇ ◇ ◇



「あれ? 先輩、もう上がったんですか?」
「あぁ。男の風呂ってのは、大して時間がかかるものじゃないから」
「もぅ、ダメですよ。いつもキレイにしてないと雪ちゃんに嫌われちゃいますからね?」
「ハハッ……。そうだな、気をつけるよ」

 桜たちが風呂から上がった後、彼女たちと交代するように俺が入った。
 しかし、その時の俺たちの様子と言ったら、今思い出してみるととても面白いものだった。だって、お互いの顔を合わせるや否や、顔を真っ赤にして、正反対の方向に顔を背けてしまったのだから。
 動きは反対だが、まるで胸像のような俺たちの動きがよほど面白かったのか、直後に雪が大笑いした。そしてその笑う様子を見ていたら、恥ずかしさとか気まずさなんかどうでも良くなってきて、一旦桜と顔を合わせ苦笑した後、俺たちも雪の笑いにつられるようにして笑った。こんなに笑うのはいつ振りだろう……そんな風に思えてしまうほどに笑った。
笑いすぎて、涙が溢れてくるほどに……
 そうして、俺たちのギクシャクとした雰囲気を完全に吹き飛んでしまったのだった。

「……それで、先輩は今、何をやってるんですか?」
 桜は俺の隣に、まるで身を摺り寄せるかのように腰を下ろしてきた。
 まだ完全には乾ききっていない髪。ほんのりと上気した肌。そして腕に触れてくる彼女の柔肌に、俺とドキリとさせられ、一瞬強張るように身を固くしてしまった。
「えぇ、これは……」
「ん?」
 キスでもしてしまいそうなほどに桜の顔が近付き、その笑みに鼓動をさらに早められる思いだった。だから、それを誤魔化すために咄嗟に別の話題を振った。
「そ、それよりっ……、雪はもう寝たのか?」
「はい。なかなか寝付いてくれなかったんですけど、ようやくさっき……」
「そっか。悪かったな、面倒かけて」
「……えぇ。本当に悪いですよ、先輩?」
「へっ?」
 再度振り向くと、彼女の笑みはいつの間にか消え……、いや、笑みは笑みでも、眉と口がヒクヒクとつり上がった邪悪(?)な笑みに変貌していた。
「あのぅ……、桜?」
「あっ、家計簿つけてるんですね? どれどれ……」
 そう言って、桜は俺の前にぐいっと身を乗り出してきて、そこにあるノートを覗きこんだ。

 家計簿――以前は全くつけようとすらしなかったが、俺が本格的に働き始め、そして雪の養育費が出るようになってからはきちんとつけ始めたのである。
 それによって気付いたのが……、むしろ案の定だったが、ウチは食費が突出して多いのだ。何せ、藤ねぇを筆頭に、桜、そして小っこい身体の雪でさえ、自分の身体の何倍も食べるのである。これは俺だけでなく、藤ねぇや桜にとっても驚きだったようだ。
 だが、それなのに雪は「なんで胸が大きくならないの〜?」などと嘆いているのを聞くのが、日増しに多くなっているかのように感じる今日この頃。だが、「お前のママの遺伝だから」とは流石に言えない自分もいた。

「あっ、これって今日の内訳ですか? へぇ……、随分高いお買い物をしたんデスネ、先輩?」
「ああ。まぁ……な」
 なんでだろう? 桜のそんな単純な疑問の言葉が妙に痛く胸に突き刺さる。それに彼女のその声のトーンもいつもよりずっと低いようにさえ思えた。
「『指輪』……ですね?」
 ドキ――――ッ!?
 口から心臓が飛び出してしまいそうなほどに驚く。
「な、な……なんで、それを!?」
「雪ちゃんから聞かされましたから、お風呂場で」
「…………」
「それで『お風呂から上がったら見せてあげる』って言うものですから、彼女が寝付くまで、それこそ『永遠』と思えるくらい自慢を聞かされたんですよ? ……まったく」
「うぅ……、ごめん」
 ……驚いた。あの桜がこんなにあからさまに不満を言ってくるなんて。一体、雪はどんな自慢の仕方をしたんだ? と激しく不安を抱いてしまう。そして俯いた俺の頭の天頂部に、桜のピリピリとした視線が突き刺さった。
 しかし、だからといって、雪にあの指輪を買ってあげたことには何の間違いも後悔も感じてはいなかった。
「ごめん。でも、あの指輪は……」
「知ってます。アレは『イリヤちゃん』なんですよね?」
「……どうして、それを」
「私だって女の子ですから、宝石とか指輪に興味くらい持ってます。そしてあの指輪……『プレネージュ』のことも」
「桜……」
 『イリヤ』――その言葉を誰かの口から聞くことによって、俺は再び思い出してしまった。あの時の雪の表情を――――さっきの風呂場の出来事の時とはまるで正反対のあの寂しげな表情を。
 そう……正反対なのだ。桜が一緒にいたときはあんなにも雪は笑顔になれる。俺一人じゃ、あそこまで無邪気な笑顔をさせることなんて…………きっと、できない。
「桜。俺……」
「先輩?」
 胡坐をかいていた脚を組みなおし、正座をして桜のことを見据える。そして桜はその緊張感を感じ取ったのか、俺と同様にして俺の目の前に腰を下ろしなおした。

「さっき……、お風呂場で言いかけてたことがあったよな?」
「……はい?」
「言ったろ? 桜は何でも悪いほうに考えてるって。もっと自信を持っていいって。そして、桜にはもっと自分自身のことを考えてもらいたい……、俺はそう思うんだ」
「…………」
「あの娘は……雪は、本当に桜に懐いているよ。それこそまるで『母親』であるかのように。なのに、桜はそういうときに限っていつも口にするよな……『イリヤ』のこと。
 俺はさ、それって違うと思うんだ。いや、それじゃいけないと思うんだ」
「どういう……こと、ですか?」
「桜が俺や雪のことを本当に真剣に考えて、そしてこうして手伝ってくれていることには感謝してもしきれないと思ってる。桜がいてくれるからこそ、雪もあんな風に笑えているんだと思うから」
「先輩。私はそんな……」
 まただ。桜はまたこうやって何かを庇い、隠そうとする。それなのに、瞳はとても切なげで、俺の心を捉えてくる。それが堪えられなくて、俺は手で制することで彼女の言葉を制した。
「いや、それは本当のことだと思う。でも、それで俺は思うんだ。桜には、俺たちのために『イリヤの代わり』をさせてしまってるんじゃないかって」
「イリヤちゃんの……代わり?」
「だって、そうだろ? 桜がやっているのは、本来イリヤがするはずだった『母親』という仕事――役。それを今、一生懸命に演じてくれている。そのことは俺にとって、とても嬉しくもあるけど……とても辛い」
 感情を内から吐き出すように、俺は食卓に拳を叩きつける。すると、置いてあったノートが鳥のようにページを羽ばたかせて飛び跳ねた。
 そしてその様子を桜は、頭のてっぺんから足の指の先まで硬直させて見ていた。
「桜にはもっと自分を大切にして欲しいんだ。自分自身という存在に自信を持って欲しいんだ」
 食卓の上の拳がカタカタと震えだした。
 やはり俺は、恐怖しているのかもしれない。今の関係を壊すことを。
 けれど、いつまでも桜に「イリヤの代わり」をさせ続けるのも怖かった。
 来年からは雪も小学生。ずっと桜がいてくれた幼稚園からは卒園しなくてはなくなる。いつまでも桜と一緒にいることなんてできないのだ。だったら、もうはっきりとさせておくべきではなかろうか……そう思ったのだ。
だから……

「良いんですか? 自分に自信を持っても。自分だけのことを考えても」
「あぁ……、そうだ。桜にはこれからはもっと、『自分の時間』を過ごしてもらいたい」
 言った。言ってしまった。
 顔は畳を向いているせいで、桜の表情を見ることは出来ない。そして今どんな顔をしているのか、予測すらつかない。つかないけれど、きっと俺の言ったことの意味をきっと理解してくれると思う。
 だと言うのに、それでも桜は俺のことを気にしてくれているのか、拳の上に手を添えてくるのだった。
「桜。だから、俺は……」
「だから先輩はこう言いたいんでしょ? 私は自分の本当にしたいことをしても良いって……そういうことなんですよね?」
「あ、あぁ、そうだけど……。桜、お前?」
 すると桜は添えた手にもう一つの手も重ね、俺の拳を両の掌で包み込む。そしてゆっくりと彼女の胸元に引き寄せられていき、ぎゅっと握り締められた。


「私、先輩のことが好きです」


「……えっ?」
 紡がれたその言葉。全く予想もしていなかったそれに、俺は一瞬、我すらも忘れてしまった。
 だって、俺は桜に何と言った? 桜は俺に何と言った? なのに何で、こんなことになるのか……そのことに思考がついていかなかった。
「先輩の言った通り、私、もう我慢なんてしません。私は先輩のことが好きです。他の誰よりも!」
 絡み付く腕。優しく俺の身体を包み込む。
「桜、なん……で……?」
 でも俺の腕は、彼女の身体を抱き返すことが出来ない。嫌なんじゃない。ただ分からないんだ……何がどうなっているのか。
「やっぱり気付いてなかったですよね、私の気持ちなんて。でも私は先輩のこと、出会った頃から好きでした。先輩が怪我したとき、先輩の家に手伝いに行ったのだって、本当は先輩のことが気になったから。先輩のことを知りたかったからなんです」
「…………」
 桜の真剣すぎる告白が、俺の胸を熱くする。そしてこぼれる涙が俺の胸を濡らし、それもとても熱かった。
「もう誰にも遠慮なんてしません。先輩……私の本当の想い、本当の願いを聞いてください」
 肩を押し、俺との距離を一旦置く。けれど俺と桜の顔の距離は30cmも離れてはいなかった。
 俺の肩に置かれている桜の手が激しく震えているのが分かる。でもその震えなど、ものの数秒のことでしかなく、直後に灯る瞳の輝き。それが俺の目を捉えて逃がそうとしなかった。そして……

「私を、雪ちゃんの本当の『母親』にならせてください」

 瞬きも、視線を逸らすことすらせず、真っ向から俺の目を見てそう言った。だが、その言葉はあまりにも……
「桜。お前、自分の言ったことがどういうことか分かって言っているのか?」
 まるで正気じゃない。ただその場の感情に流されて……、どうせそんな言葉なのだろうと思うのに、この治まらない鼓動は何だ? こんなおかしな話が本気だって言うのか…………桜!
「分かってます。本当は『このままでも良い』って思ってたんです。先輩と雪ちゃんの側に居られれば、それで……。
 なのに、先輩がそれを壊そうとした! だから、だから私は――――っ!!」
「……桜」
 その時になって、俺はようやく彼女の身体に手を回すことが出来た。そして優しく包み込んだ。
 俺がそうなれ、と言ったことだけど、あの桜が強い意志を示してくれたことに驚くとともに、嬉しくもあった。
 でも、そのことと桜が今言った内容は関係ない。
「馬鹿なことを言うな。そんなのは『自分』の意志なんかじゃなくて、もろに俺たちに引きずられてるって証拠じゃないか。そんなのを俺は……認めることはできない」
「違いますっ!!」
 その鋭い声とともに、俺の頭は大きく揺れていた。
「……え?」
 じわりと拡がりをみせる頬の痛み。――――桜が、俺をぶった?
 手をそっと頬に当てると、そこだけ普通よりも熱を持っていた。その熱が、その痛みが何よりの証拠。

「いつまでなんですか?」
「なに……が……?」
「先輩はいつまで、死んでしまった人に縛られているつもりなんですか?」
「なっ……に!?」
 一瞬、拳に力がこもる。もし相手が桜じゃなかったら、このまま殴り倒してしまったかもしれないほどに。
だがその気配だけでも感じ取ったのか、桜がビクリと震えるのだが、それでも俺から目を離そうとはしなかった。
「……ごめんなさい。先輩に酷いこと言ってることは分かってます。でも……、でもだからこそ私は許せないんです。イリヤちゃんが」
「イリヤを? どうして?」
「だって、イリヤちゃんは先輩の心を独り占めにした。今まで決して一人だけに注がれることのなかった先輩の優しさを。
 ……羨ましかった。私はその時から『イリヤちゃんの代わり』になりたいと思ってた。でもそんなことできないって分かってたから、だから『側に居られるだけでいい』って思うことにしたんです。
 でもイリヤちゃんは死んでしまった後でも、こんなに先輩の心を掴んで離そうとしない。それが悔しくて、許せなくて……
 私の方がイリヤちゃんより前に先輩に出会った。
 私の方がイリヤちゃんより前に先輩を好きになった。
 私の方がイリヤちゃんよりずっとずっと先輩のことを愛していた」
 まるで呼吸をすることを忘れてしまったかのように、桜は言葉を羅列した。そして彼女の涙も止まることを忘れていた。
「ねぇ、先輩! それでも先輩はイリヤちゃんだけなんですか? 私じゃダメなんですか、先輩の隣に居るのは? ねぇ……先輩っ!!」
 桜の握り締めた拳が交互に俺の胸を叩く。頭を俺に押し付けて、何度も、何度も……
 そして俺は桜のその頭を抱くようにして、彼女の身体を抱きしめた。
「うぁ、ああぁぁ――――っ」
 その泣き声が耳に痛い。だって、どうすべきか、俺自身良く分からないんだ。
 桜がこんなにも俺を想っていてくれていることは本当に嬉しいし、言っていることも正しいかもしれない。けれど、「それじゃあ……」と言って、心を簡単に切り替えられるほど俺は器用な男じゃないし、イリヤのことを今でも愛しているのは本当のことだから。
「桜。ごめん、俺は……」
「うぅ……ぐすっ。私の……方こそ……、ごめんなさい。今言ったことは忘れてください」
「えっ?」
「今日のことでこれから変にギクシャクしたくないですから。例え今の関係が終わったとしても、先輩たちとは仲良しでいたいんです」
「桜……」
 赤く腫らせた目があまりにも痛々しい。しかも、そんな顔で微笑まれたら余計に……だ。
 でも、桜にこれ以上に悲しい思いをさせることはない。そして、俺自身もそう。これ以上、今以上に深い関わりあいを持たなければ、お互い辛い思いをしなくても済むんだ。

 あんな思いをするのは……、一度で十分だから。



◇ ◇ ◇



 そうして俺は桜から目を逸らした。これ以上あの目を見続けることができなかったから。
 だが、その逸らした視線の先、そこにはいるはずがない少女が立っていた。
「な――――っ!?」
 その少女――勿論、見覚えなんてありまくる。でも……

「実は弱虫だったんだね……、シロウって?」
「……イリヤ」

 幻――――そんなの当たり前だ。その少女はもうこの世にはいない。今ここに居るはずがないのだから。
 でも、たとえ幻でもまた逢えるなんて……
「来ないでっ!」
「っ!?」
 幻のはずなのに、良く通る叫び声が鼓膜を叩く。俺はそれに驚き、踏み出そうとした足を固まらせていた。
「イリヤ……、なんで!?」
「わたし、『弱い』シロウは嫌いだから」
「弱い? 俺が?」
「そうだよ。今のシロウってすごく格好悪いよ。わたしはこんなシロウを好きになったんじゃないもん」
「…………」
「『分からない』って顔してるね? いいよ、教えてあげる」
 イリヤはその場で軽やかに回転し、俺に背を向ける。そして俺の目の前に広がるのは彼女のその真っ白な髪。その髪に惹かれるように手を伸ばすのだが、その手も彼女の言葉によって止められてしまった。
「シロウは『大切なモノを守ってみせる』――そう約束したけれど、結局守ることが出来なくて、大切なモノを失ってしまった。
 『正義の味方』は『守ろうとしたモノ』だけを守ることが出来る。けれど、その『守ろうとしたモノ』すら守ることが出来なかった。その罪悪感か恐怖心からか、シロウはいつしか『正義の味方』でなくなっていた」
「……ぐっ」
 聞かされる一言一言が胸に重くのしかかる。それはそうだ。今聞かされている『大切なモノ』『守ろうとしたモノ』とは、まさに喋っている本人のことなのだから。
 だが、俺の心境など無視に、イリヤはさらに追い討ちをかけてくる。
「結局守れないモノがあるのなら、初めから守ろうとしなければいい。そうすれば、守る側も守られる側も無意味な期待をしなくて済むのだから。
 シロウはいつしか、そんな風に考えるようになっていた……そうでしょ?」
「ち、ちが――――」
「本当に心から違うって言えるの? 桜のことを突き放そうとさえしたのは、そういうことじゃなかったの?」
「違う! 俺はただイリヤのことを……」
「……ありがとう。シロウがわたしのことを想ってくれているのは本当に嬉しい。
 けど、もしそう言ってくれるのなら、わたしのことで変わってしまったシロウの本当の意思を取り戻してから言って欲しい」
「俺の本当の意思? そんなの決まってる。俺はイリヤと雪のことだけを……」
 だが、イリヤは俺の言葉を遮るかのように、無言で首を横に振った。
「違うよ、シロウ。そんな風に考えてしまうことが、もうシロウがおかしくなっているって証拠なんだよ」
「おかしくなんて……、俺はおかしくなんてなっていない!」
「……シロウ」
 やめろ! そんな同情の目で見ないでくれ。だって、俺は間違ってない。大切なモノを守りたいという気持ちは決して……

「それなら、貴方は『切嗣』から一体何を学んだの? その男の一体何に憧れたって言うの?」
「きり……つ……ぐ……?」
 それは、ここで出てくるなんて思いもしなかった人の名前。俺たちの――『父親』の名前。そして、俺が尊敬すべきでもある……
「正義の……味方……」
「そう、正義の味方だよ。そこでシロウは『正義の味方』ってどんなものだと思ってる?」
「えっ?」
「シロウが憧れた、シロウがなりたいと思った『正義の味方』って何なの? 弱き者を助けることが出来たモノ? 助けを望む人たちを助けることが出来たモノ? 大切なものを守ることが出来たモノ?」
「それは、そう…………」
「……本当に、そうかな?」
「イリヤ。お前は一体何が言いたいんだ?」
 彼女のはっきりしない態度、煮え切らない態度に俺はついに痺れを切らしてしまう。だが、俺のそんな回答を聞いて、イリヤは冷笑とも取れる笑いを浮かべるのだった。
「『助けることが出来た』 『守ることが出来た』――そんな結果を伴わないと、『正義の味方』って存在しないのかな? 助けたいと願って尽力したのに、結果『守ることが出来なかった』ら、それはもう正義の味方じゃないのかな?」
「……そうだ。『正義の味方は守ろうとしたモノだけを守ることが出来る』。逆に言えば、それは守ってくれたモノたちにとってだけの正義の味方なんだ。守ろうとしてくれたとしても、結果守ってくれなかったのなら、その者たちにとっては正義の味方じゃない。それならば、守ってくれなかったのと同じだ」
「本気でそう思ってる? もしそうだとしたら、シロウはとんだ『セイギノミカタ』だね」
「……なに?」
 彼女の口元が一層つり上がり、その笑いに本当に凍えるような冷たさを感じた。
「シロウが思っている『切嗣』という『正義の味方』像。でも、切嗣だって何人もの人を見殺しにした、助けることが出来なかった……助けようとしたのに。けれど、何十、何百という死骸を乗り越えてでもあの男は『助けよう』とする意志は失わなかった。そしてついに、シロウ…………貴方という人間ただ一人だけを助けることが出来た。
あの地獄の最中、生きている人間なんているはずもなかった。だったら、あの男は助けようとなどしなければ良かった。そうすればあんな悲惨な光景を見ることはなかったのだから。
 でも、あの男がそうしたからこそ、今シロウがここにいる。助けようとしてくれたから、シロウは助かったんだよ?」
「……ぁ」
 そうだ。事実、切嗣が助けようとしてくれたからこそ、俺は助けられたんだ。たまたま……、本当にたまたま俺だったんだ。もしかすると、助かっていたのは俺以外の誰かだった可能性もあったのだ。だから、きっと俺以外の人間は切嗣のことを『正義の味方』などとは思わないのだから。
「そう、違う。俺はこんな……」
「そうだよ。シロウはいつの間にか変わってしまっていた。『みんなを助ける』――そんな無謀とも思える願いを真剣に願っていた、あの時のシロウから」
 変わってしまっていた。イリヤがさっき言ったように、俺はいつの間にか弱くなってしまっていたんだ。イリヤを失ったことによって。
「臆病者――そうだな、俺はなんて臆病になってしまっていたんだ。自分から動かなければ、確かに傷つかず済むかもしれない。けれどそれは同時に、何も得ることができないということなんだよな」
「…………」
「俺だけならば、それも良いかもしれない。でも、俺には……雪がいる」
「シロウ……」
 イリヤは一歩二歩と俺の方へと歩み寄り、俺の胸にすがりつき、そして俺の胸にその頬を摺り寄せてきた。
幻のはずなのに、その触れ合いはとても、温かかった。
「サクラなら……いいよ?」
「んっ?」
「サクラなら、シロウとユキを任せられるから。だから……、んぅ!?」
 その言葉を発するイリヤの口を、俺は自分の口で塞いでいた。
「ぁむ、……んっ、……っふ」
 長い長い……口付け。甘いとか優しいとか……そんな言葉は一切関係ない、ひたすら貪りあうだけの口付け。それを俺たちは息が続く限り交し合った。

「はぁ、はぁ……、イリ……ヤ……」
「……っ、……ぅ」
 あまりの酸素の消費に俺たちは喋るための酸素すら渇望していた。
「イリヤ。今の……言……葉……」
「……うん」
「今はとりあえず、その想いだけ受け取っておくよ」
 そうして俺は彼女の頭に手を置き、そっとその髪を撫でてやった。
「どうし……て? そんなにサクラのことが嫌? それともやっぱり未練?」
「桜のことを嫌いになる理由なんてないよ。それと、イリヤ……お前は俺の妻なんだぞ? 忘れることなんてあるはずないし、未練がないなんて言えばそんなの嘘以外の何でもない」
「だったら、どうして!?」
「……あの娘はまだ、自分の母親に会ってないから。これから俺たちがどう変わっていくのかは分からないけれど、これからも不変で明らかなこともある。
 それはあの娘がイリヤの子供だってこと。イリヤがあの娘の母親だってこと。そのことだけは天変地異が起きようとも変わらないことだから。
 だから、『とりあえず』だ。あの娘も俺も、共に進んでいくために……」
「シロウ……」
「悪いな。来年になったら雪を連れて必ず会いに行くから。だからそれまで、もうちょっと待っててくれな?」
「うん、しょうがないなぁ……、もぅ……」
 零れ落ちる涙。そっと拭おうと伸ばした俺の指がその涙に触れるかどうかの刹那の瞬間、イリヤの身体は涙と共にホウマツとなって霧散した。
その光の粒はあまりにも幻想的なマボロシだった。

「ふぅ……。もう泣かないって、雪とも約束したからな……」
 その光が完全に途絶えた後も、俺はしばらくの間、視線と天井を垂直に保っていた。ソレが零れ落ちないように……



◇ ◇ ◇



「……ぱい、……んぱい、…………先輩っ!」
「え……」
 顔を元に戻すと、何故か目の前には桜の顔があった。
「『え……』じゃないです! 先輩、急にぼーっとして、目も虚ろで……、ホントに心配したんですからっ!」
「そっか、ごめん。ごめんな、桜。ちょっと……『夢』を、見ていたんだ」
「夢……ですか? 立ったままで?」
「あぁ。立ったままで、だ」
 その返事に首をかしげる桜の姿はどこかおかしくて、ついつい笑いをこぼしてしまった。「本当におかしいのは俺なのにな」――そんな苦笑も含めて。
「もぅ、先輩? 真面目に――」
「桜。俺はいたって真面目だよ。本当に夢を見ていたんだ……イリヤが出てくる夢をね」
「イリヤ……ちゃん!?」
「まぁ、信じられないだろうけどね。けど俺は本当に、イリヤと出会い、そして話をしたんだ」
「話……、一体どんな?」
 伏せ目がちにチラチラと視線を向けてくるその様は、以前と同じ―― 一歩引いた桜の様だった。俺とイリヤ、二人の間に出来るだけ割り込もうとしない、そんな様。
 だが、俺はそんな彼女を咎めるのでも、何を言うのでもなく、ただ話を続けた。
「久しぶりに会えたっていうのに、説教されたよ。『シロウは弱虫だ』ってね」
「先輩が、弱虫? イリヤちゃんは何でそんなことを?」
「真実だったからさ。桜にはさっき散々なことを言っておきながら、俺自身も前に進むことに臆病になっていたんだ。……まったく、人のことなんて言えたもんじゃないよな」
「先輩……」
「なんで、桜がそんな顔するんだよ」
 俺は少し呆れつつも、微笑みながら桜の顔をそっと引き寄せた。彼女の方もそれに抵抗することなく、吸い込まれるように俺の胸に身を寄せた。
そして俺は、彼女の髪をやはりまだ乾ききっていないその髪を撫でながら、その耳元で呟いた。
「ごめんな、桜……」
「っ!?」
 俺の謝罪の言葉に彼女は身体をビクリと震わせた。しかもその言葉は先程も言った、拒絶の言葉。だが……

「ごめんな、桜。さっきの返事はもう少しだけ、待っててくれないか?」
「えっ?」
「イリヤに背中押されたばっかりなのに、優柔不断で情けない奴って思うかもしれない。けど、桜の真剣な想いを、今のその場しのぎの『YES』『NO』で返したくないんだ。俺の思い、雪の思い、そしてイリヤの思い――――全部受け入れて、全部考えて、それで返事をしたいんだ」
「…………」
「来年の夏になったら、雪をイリヤに会わせようと思ってる」
「会わせるって……、雪ちゃんをあそこへ?」
「ああ、そうだ。イリヤの墓参りに……連れて行こうと思う。俺自身もだけど、雪の本当の気持ちも知りたいから。雪はどうしたいのか……それもふまえて返事をしたい、イリヤの前できちんと。 ……駄目か、それじゃ?」
「…………」
 だが、桜はずっと黙ったまま、そして小刻みに震え続けるだけだった。
 やはり、自分勝手すぎる回答だったろうか? いや、そうだろうな、きっと。
返事を先送りにするわ、他人の意見も参考にするわ……と、良いとこなし。流石の桜にも今回ばかりは呆れられてしまったのかもしれない。
だが、そのことについて俺は、恥ずべきとも後悔したとも思いはしなかった。だってそれが、踏み出した一歩なのだから……
「桜。やっぱり、嫌か? こんな答えじゃ?」
 腕の中で嗚咽を漏らす彼女にそう問いかける。
 すると彼女は窮屈なその場所で、勢い良く首を振った――――横に。
「嫌じゃ、ないです。……嬉しいです、ものすごく」
「桜……」
「先輩、大好きですっ――」
「まだ『OK』と返事したわけじゃないんだぞ?」
「分かってます。ただ、どうしても言葉にして言いたかったんです。何年も……言えなかった言葉ですから」
「そっ……か……」
 涙しながらも微笑みかけてくれる彼女の表情は、とても優しくて、とても……綺麗だった。
 ドクン――
あまりにそれが綺麗すぎて、心臓が口から飛び出してしまいそうなくらいに飛び跳ねた。
「先……輩……」
 今だ涙に濡れたその輝く瞳が俺を捉えて離さない。そして俺のこと先輩と呼ぶその唇が艶やかに震えた。
「さ……くら……」
 惹かれていく、引かれていく。俺の見上げる彼女の顔に。
 そして俺と彼女の距離が近付いていくにつれて、彼女の瞼はゆっくりと上下の距離を縮めていき、そこに溜まっていた涙をほろりと頬に伝わせた。その雫――それが顎まで到達し零れ落ちる寸前、それは俺たちが触れ合う寸前、何の前触れもなく俺たちは同時に身体を震わせた。
 その突発的な原因。それは俺たちの間を割って入ってきた……

「パパぁ〜……、おしっこ」
「!?」
 その言葉に俺たちは一瞬にすら満たない時間で身を離し、そして共に顔を同じ方向へと向けた。
「雪?」
「雪ちゃん?」
 向けた視線はこの居間の入り口。そこにパジャマ姿の雪が眠たそうに目をこすりながら立っていた。
「……うにゅ、……ぅ」
 この様子を見ると、どうやら先程の俺たちのことは分かっていないだろう。そのことに胸を撫で下ろしながら、お互いの顔を見合わせた。
「ハッ」
「……フフッ」
「ハハハ――」
 何なんだろうな、この胸の奥から温まる衝動は。
 俺と雪と……、そして桜。『3人』であることの幸せ。それは、俺やイリヤが夢見続けてきた――『夢』

「いいのかな、イリヤ? 俺は、俺たちは幸せになっても……」

「えっ? 先輩、何か言いましたか?」
「……いや、なんでもない。さっ、そんなことよりも早く雪のこと連れてってあげないと」
「そうですね」
 肩にポンと手を置いて彼女を促す。すると彼女もそれに従い、微笑みながら頷き返した。
「じゃあ、雪ちゃん。私と一緒に行きましょう?」
「なら、俺が背負って行っていこう」
「うん。パパとサクラと……、『3人』で行くのっ」
 俺が雪の前に屈むと、そのまま倒れこむように俺の背に覆いかぶさってきた。そして片方の手は俺の首周りに、もう片方の手は隣に屈んでいる桜の手を掴んだ。
「むにゅぃ……、さくらぁ……」
「雪……ちゃん」
 その言葉を自分の中で反芻させるように目をつぶり、そして繋いだ手にもう片方の手を重ね合わせた。
 彼女の中での雪の存在――その大きさは一体どれほどのものなのだろうか? それは俺には計り知れないこと。けれど、彼女にとっても雪が大切な存在であろうことだけははっきりと感じ取れる――それはそんな仕草だった。
「桜、いいか?」
「あっ、はい。ごめんなさい」
「いいよ。それに謝るなら、俺にじゃなくて雪に、だろ?」
「そう、ですね。……ごめんね、雪ちゃん」
 そして桜がその髪を撫でるのと同時に、俺は雪を背負ったまま立ち上がった。


「さぁ、桜。行こうか…………『3人』で」

「――はい」







<了>   







◇あとがき◇

 トライアングルパニックの題名にあるように、三人で繰り広げるドタバタラブコメディっぽくしようとしてたんですが、シリアス要素の方が強めになってしまった感じ……反省。
ちなみにトライアングルは「士郎―桜―雪」&「士郎―桜―イリヤ」っていう三角関係を表してます(前者がほのぼのトライアングルで、後者がシリアストライアングル)

 あと、この話の後、前作「夏に降る『雪』後編-epilogue-」のシーンに繋がっているという形になってます。


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