蝉の声が煩いくらいに鼓膜をつく。そして、それに勝るとも劣らない騒がしさを放つ街の雑踏。
 この冬木の地も、夏真っ盛りという季節になってきた。
 今日も夏休みという休日を利用し、新都を訪れる人は多い。しかも、どちらかと言えば、外からの観光客が多いように見える。
それは勿論、山あり、海あり、娯楽施設あり、というこの冬木の街の特徴が為だろう。
そして各々の目的地へと向かう人々は皆、薄手で表情もとても明るく伸び伸びとしていた。
 だが、そんな周囲の状況とは、俺は明らかに対照的な立場にあった。
ただでさえ暑いと言うのに、今の俺はそれに追い討ちをかけるか如く、新都の人ごみの合間を全速力で駆け抜けていく。
「はっ、はっ、はぁ……」
 熱い空気は呼吸を乱し、溢れ出る汗は視界を乱す。
だったら、立ち止まって一呼吸置けば良いのだが、一度ついた足の回転の加速……そして、今の俺の心境がそれを許さなかった。


 夏休みではあるが、仕事がある俺は今日も新都へと赴いていた。
 高校を卒業した俺――衛宮士郎は、切嗣や遠坂のように魔術師として生きていくのではなく、普通の職に就いて生きていくことにしたのだ。
 それは何も、魔術を捨てた……という訳ではない。魔術に関しては今もまだ独自に、そしてイリヤに色々と教えてもらっていたりもする。
 だけど、今の俺が守りたいもの――それは生活なのだ。イリヤとの生活、『普通の人間』としての生活。
 だから俺は、そんな生活を守る為に、今日もまたこうやって働いていた。


 そんなある日のこと――それも時間にすればほんの少し前の出来事である。
 俺の職場である『コペンハーゲン』にかかってきた一通の電話。普通に、酒の注文の電話かと取った受話器だったが、それはなんと藤ねぇからの電話だった。
「どうしたんだよ、藤ねぇ? 今まだ仕事中だからさ」
「ち、ち……違うのよっ!」
「ん? あぁ、俺じゃなくてネコさんにだったか?」
「違う、違うんだって!」
 仕事中ということもあり、適当にと言うか、急かすように対応してしまう。けれどそんな俺とは対照的に、電話越しの藤ねぇの様子はどこか普通じゃなかった。
あの『藤ねぇ』が、である。彼女がこんなにも緊迫した様子、こんなにも震えた声を出すのを俺は聞いたことが……ない。
 だから俺も、途端に声色を変えていた。変えざるを得なかった。
「何があったんだよ、藤ねぇ?」
「士郎、あの、その……ね?」
「藤ねぇ、少し落ち着くんだ。ほら、まずは大きく深呼吸してさ」
 そして藤ねぇは俺の言葉に従い、電話越しではっきりと分かる「スーハー、スーハー」という大きな呼吸を何度も行う。加え、耳をすませば、藤ねぇの鼓動音すら聞こえてくるようにもかんじられるほどだった。

 それがどのくらい続いただろうか?
まるで、長距離走の後のような激しい呼吸――ようやくそれを抑えつけた藤ねぇが再び受話器に口を近づけたのが分かった。
「もう、平気か?」
「……うん。ごめんね、士郎」
「ああ、それは全然構わないから。それよりも一体何があったって言うんだよ?」
「実は、今ね……イリヤちゃんが――」

 そこまで藤ねぇが言いかけたところで、俺の耳に違和感ある音が飛び込んできた。
その音――ひとまず受話器から耳を離して辺りを見渡しみるが、それはこっちの周りからは聞こえては来なかった。ということはつまり、その音は受話器から……藤ねぇが今いる自分の家の周りから聞こえてきたものだということになる。
「藤ねぇ……今の音って?」
 その音は日常でもそこそこよく聞くものだが、聞こえてきた音の大きさが尋常じゃなかった。まるですぐ側にいるのではないか? と思えてしまうほどに。
「ごめん、士郎! もう来ちゃったから、詳しくはまた後で!」
「ちょ、ちょっと待てよ!? 『もう来た』って何が来たんだよ? それに今の音ってまさか……」
 電話に向かって俺は叫ぶ。
藤ねぇの理解できない行動と今の音――それが俺の肝を一気に冷やす。そしていつの間にか、受話器を握る俺の手は汗にまみれ、その手もガタガタと震えてしまっていた。
「藤ねぇ……藤ねぇ!?」
 何度も、何度もそう叫び続けるのだが、藤ねぇは何も答えない。きっと受話器から離れてしまったのだろう。
それが俺の不安を一気にかき立てた。だが、その不安を必死に抑え、震える手で受話器に耳を近づける。
 すると、そこからはさっきの音に代わり、なにやら慌しい雰囲気が伝わってきた。
「はい……、はい。そうなんです。はい……」
 しきりになにか返事をしている藤ねぇ。
『もう来た』と言ったが、『誰か』が来ているのだろうか?
藤ねぇたちのそんなやり取りの中、受話器を越えた俺だけが静聴していた。

 そして、考える。今の状況を。
 『誰か』が来ている?
そんなこと分かっている。だって、あれは――さっき聞いたあの音は『救急車』のサイレンだ。
それに、さっき藤ねぇが言いかけた言葉――「イリヤが……」
そんな二つのことから類推すれば、今、どういう状況になっているのかは明らかだった。
「そんな……、イリヤ……」
 こんな突然の凶報に、こぼれる弱音。つい握った受話器を落としそうになってしまう。
 ……訳が分からない。何でこんなことになってしまったのか。

「士郎っ?士郎ってば、ちょっと、聞いてるの!?」
「え……」
 突然受話器の下に戻った藤ねぇの声に、思考が現実に引き戻された。
「『え?』じゃないでしょ? イリヤちゃんが今、大変なの! だから、士郎……仕事抜けて来られる?」
「イリヤ……大変……抜ける……?」
 やはりイリヤの身に何かがあったんだ。
その衝撃的な事実に、俺は魂が抜けたように呆然としてしまっていた。そして吐き出される言葉も、文章として成立しない単語の羅列でしかなかった。
「こらっ、士郎の方こそ落ち着きなさい!」
 藤ねぇの叱咤の声が俺に突き刺さる。
 落ち着こう、落ち着こう――何度もそう自分に言い聞かせているのだけれど、でも身体が全く言うこと聞いてくれないのだ。
「だって、イリヤ……が……」
「そうよ。イリヤちゃんが必死に頑張ってるんだから、そこで士郎がしっかりしてあげなくてどうするの!?」
 普段とは想像もつかない藤ねぇの凛としたその声が良く通る。
「藤……ねぇ……」
 もしかしたら『初めて』……かもしれない。藤ねぇがこんなにも頼もしく感じられるのは。
彼女からすれば、この言い草は失礼なものだったかもしれないが、でも、俺にとっては本当にありがたいものに感じていた。
「私はイリヤちゃんと一緒に救急車に乗っていくから、士郎はそっちから直接来て」
「来て……って、何処に行けば良いんだよ?」

「冬木中央病院よ」
 それだけ言うと、受話器の側からフッと藤ねぇの気配が薄れる。
 そして俺はと言うと、電話越しにも拘らず、彼女を引き止めるように片手を宙に彷徨わせていた。
「藤ねぇ、待っ――」

 しかし、電話が切れる直前、そこからもう一度だけ、俺の呼び止めに応えるようにして彼女の声が聞こえてきた。


「しっかりしなさい、士郎! 貴方はもうすぐ…………」





夏に降る『雪』
- remember -






 発端は――今から半年ほど前の、『雪』の降った冬の日のことだ。

「ふぅ……」
 俺は、窓から差し込んでくる光に目を細め、軒先で囀る小鳥たちの声を聞いていた。
そして、そんな光や声に背を向け、一仕事終えた俺は、息を吐いた。
 洗い物をしていた俺の手は、その水の冷たさのせい、気温の低さのせいであかぎれになってしまいそうだった。
「はぁ……、はぁ……」
 その手に向かって、二度、三度と息を吐き、手を擦り合わせて暖をとる。
「全く……、家の中だというのに、吐く息がこんなにも白くはっきり見えるのは如何なものだろう?」などと苦笑しながら、俺は居間の方へと戻っていった。

「あっ、シロウ、ご苦労様。はい……これ、お茶ね」
 暖房のしっかりと効いたその居間で俺を待っていたのは、むわっとしたその空気とイリヤの姿だった。
「あぁ、ありがとう。貰うな」
 食卓に着き、差し出されたその湯呑みを掴むと、その熱さが俺の肌を刺激し、熱いと言うよりも、痛いというような感覚を与えていた。
 そのせいで、俺の顔は苦痛に歪んでしまっていたのかもしれない。それを見たイリヤが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「ごめん、シロウ。もしかして熱すぎた?」
「いや、大丈夫だ。俺の手が冷たすぎたせいで熱く感じすぎただけだから」
 湯呑みからいったん手を離し、また手を擦りながらそう答えた。
「…………」
 その問答を境に、俺たちの間に会話が途絶える。
 そして聞こえるのは、エアコンの駆動音と、こんな寒さだと言うのに、相変わらずせわしなく鳴いている小鳥たちの声。そんな音に加えもう一つ、お茶を啜るズズーッという音も。

 いつものこの居間からは想像もできないほどの静けさ。
これが本来なのか、それともやはり異常なのか――どちらなのかは分からない。けれど、相違点があることは間違いなかった。
「なぁ、イリヤ? 藤ねぇはどうしたんだ? ……それに桜も」

 ウチには『家族』と言ってもいい人が俺とイリヤ以外にも二人いる。
それが、『藤ねぇ』こと『藤村大河』と、『桜』こと『間桐桜』のことである。
 桜はある出来事をきっかけにほぼ毎日ウチに家事を手伝いに来てくれている。そして藤ねぇの方は、ある出来事……なんていうことは全くなく、常日頃から飯をたかりに来ている。
一年ほど前まではこのメンバーに加え、『遠坂凛』という娘も朝夕、ウチに来てくれることも多かったのだが、学校を卒業した後、倫敦に留学してしまったせいで、もう日本には、この家には居ない。
 そして、2年ほど前にはこのウチにもう一人家族が居たのだけれど、そいつももう……居ない。

「さくらはもう……出かけたよ。朝に特別講習があるんだって。タイガはお手洗いだと思うけど……」
「そっか、桜はこの時期大変だよな。大学受験、直前……だもんな」
 もう一口、お茶を啜る。
 俺は去年卒業し、普通に就職したんだが、一つ下の桜は今年3年であり、受験生なのである。
しかも、今は一月末――まさに大学受験の本番真っ最中なのである。
「でも……大丈夫……でしょ? さくらは士郎と違って……頭良いんだし」
「そうだけどさ。それでも大変なことには変わりないさ」
「ふぅん、そういう……ものなんだ」

「…………」
 それきり、またイリヤとの会話が途切れてしまう。
 やはりどこか今日の雰囲気はおかしい。何でだ?――そんな疑問を抱き、原因を考えてみる。

 確かに、今はこの場に藤ねぇも桜も居ない。いつもの人数の半分になれば、その賑やかさだって大人しくなってしまうのは別に変なことじゃない。
 ならば、変なのは何か? ――俺たちか?
 いや……、自分で言うのもなんだが、今日の俺は別にいつもと変わりないと思う。
 じゃあ、俺の方ではなく、イリヤが変なのか?
そう思い、食卓の反対側のイリヤを見やってみると、そこには俺と同様、黙ってお茶を啜っているイリヤの姿。別に何の変わりもない。いつも元気なイリヤにしては少しだけ口数が少ないことを除いては。
(考えすぎ、か……)
 俺が変だ。イリヤが変だ。――突然頭に浮かんだそんなおかしな考えを、失笑しつつ、首を左右に振って追い払った。
何も根拠なく、そんなことを考えてしまう俺がきっと変なのだ――そんな結論で自己完結させて。

 だが、そうして視線をイリヤから自分の湯呑みに戻そうとした時、突然、俺の視界が揺れた。
グラリと、その視界のぶれに伴って、目の前に居るイリヤの頭が揺れる。
「えっ?」
 突然のぶれに、俺は手の甲で激しく目を擦った。 
(……いや、違う。揺れたの俺の視界ではなく、イリヤ自身の方か?)
「イリヤ、お前……?」
 よく見てみれば、イリヤの白い顔がほんのりと赤い。それに、さっき交わした会話でも、彼女の口調はどこかおかしかったようにも感じられた。
 けれどイリヤは、そんな風に心配そうな表情を浮かべる俺に余計な心配を与えないようになのか、優しく微笑み返してくれた。
「えへへ……ごめんね、シロウ。何でも……ないから」
「何でもないって、そんな顔して何でもないわけがないだろ?」
 俺はすかさず席を立ち、イリヤの傍らに歩み寄った。そしてその手を取ってみると、その赤さが示すように高い熱を持っていた。
「イリヤ、熱が……。いつからなんだ?」
「うん。その……今朝から、かな? でも、大丈夫だよ。単なる風邪、だから」
「風邪……、そうか。息も荒くて辛そうだったから、心配……した」
「うん、ごめんね……シロウ」
 イリヤがそっと、俺の肩にもたれかかってくる。
「イリヤ……」
 そして、俺はそんなイリヤの頭に手を伸ばし、優しくその髪を撫でてやった。
「ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから、今だけ肩を貸して?」
「ああ。別に今だけじゃなくていい。言ってくれれば、俺の肩なんていつでも貸すから」
「……うん。ありがとう、シロウ」
 今だけ――藤ねぇがここに戻ってくるこのほんの少しの間だけ、俺たちは二人だけの時間を過ごした。



「じゃあ、行って来るな。イリヤはしっかりと寝ておくんだぞ?」
「だから、大丈夫だよ。シロウはいつも私のこと、子供扱いするんだから」
「ハハッ……、そうかな?」
 大分落ち着きを取り戻したように見えるが、相変わらず頬はほんのり赤い。今のはもしかしたら『怒ったから』なのかもしれないが。
 しかし、ここで「今日は休んで、イリヤのこと看てるよ」なんて言ったら、やっぱり「子供扱いして!」と怒られるのだろうな……、とそんなことに苦笑しながら、その場から立ち上がった。
 そして俺は食卓を離れ、廊下への出口へと向かう。その襖を手をかけようとしたその時、それはまるで自動ドアのように開かれた。
「――っ?」
 開かれた襖の向こう、鏡に映る自分のように真正面に佇んでいたのは藤ねぇだった。
「あら、士郎? もう出かけるの?」
「藤ねぇ……。ああ、行ってくるよ」」
「そう、いってらっしゃい」
 藤ねぇはその場を一歩退き、俺のための道を空けてくれる。そして俺は、「ありがとう」――そう言葉にし、彼女の隣を通り抜けて行った。

 シンとした廊下を進む足音。
 その中でミシ、ミシ――と響き渡る音が、この空気の冷たさを引き立たせているよう。
 けれど、俺の手には、肩には、さっきまで感じていたイリヤの熱が残っている。この今の空気の冷たさに比べると、その熱さは少し異常であるかのようにも感じられた。
そしてその『異常』という思いが、何故か俺の足枷となって、俺の歩みを妨げようとするのだ。
 こう思ってしまうのは、単なる「彼女に甘い」ということなのだろうか?
 ……客観的に見れば、そうかもしれない。けれど、今日のイリヤの様子はどうしても、彼女の『風邪』のせい、ということだけには考えられない――どうしてもそんな思いが拭えずにいた。


 そして、その疑問は見事に的中することになる。
 俺の足が玄関の縁に触れたその時、背中に鋭い声が突き刺さったのだ。
「イ、イリヤちゃん!? どうしたの!?」
 ズキリ――そんな藤ねぇの叫び声はまるで俺の心臓を掴むかのようだ。
 そして、俺は痛むその胸を服ごと握りしめながら、踵を返していた。
(イリヤ、イリヤ、イリヤ――――!?)
 締め付けられる心臓と、弾けようとする心臓――内外からの圧迫、重圧。今度はそれらが足枷となり、十歩にも満たない居間までの距離を異様なまでに広げていた。
 一歩、二歩……、一秒、二秒……、それらが重く、長い。
 急がなくてはならないはずのこの状況。だと言うのに、藤ねぇの叫び声が聞こえてからこの居間の入り口にまで戻るのに、かかった時間は計り知れなかった。

 そうしてようやく辿り着いたこの入り口。その前に立った俺は一瞬の戸惑いを感じてしまった。
 ここを開けるのが、中の様子を見てしまうのが――怖い。これはきっと本音。
情けないことかもしれないが、俺は手が震えるほどに恐怖していた。
 『予感』とでも言うのだろうか、これは。
襖に手をかけたとき、まるでその内側が手に取るように分かる――そんな感覚に見舞われた。 
 けれど俺は、頭にこびりついたその『予感』を振り払うように、その襖を一気に開け放った。
「イリヤがどうしたんだ、藤ねぇ!?」
「ぁ……、士郎。イリヤちゃんが、イリヤちゃんが……」
 開け放たれ、現れた光景――そこで見たのは、口元を押さえてうずくまるイリヤとその傍らで背中をさする藤ねぇの姿だった。



◇ ◇ ◇



「……はい。本当にすみません、オヤジさん。今日の分は次の公休日返上で働きますんで……、あっ、はい。はい、ありがとうございます。それじゃあ……、はい、失礼します」
 受話器に向かって、俺は何度も何度も頷きながら受け答えを繰り返した。しかしそれを手短に終えた俺は、すかさず受話器を元に戻した。
「はぁ……」
 ここは病院に設置された公衆電話の前。俺はそこで、受話器を押さえつけた状態のまま固まってしまっていた。

 あの後、俺は藤ねぇと二人でイリヤを大急ぎで病院に運んだ。
 そして、今はそのイリヤの診察が行われている。本当は俺が付き添いたかったのだが、一応ここは年輩者である藤ねぇに任せることにした。
 俺はその間に、とりあえず仕事先のコペンハーゲンに連絡をいれ、店主であるオヤジさんの好意により、今日の休みの許可を頂いたところだった。
「イリヤ……」
 さっきからこぼれ出るのはそんなため息だけ。
 イリヤの身体というものが普通ではないこと。そして、普通よりも弱いこと、それを俺は知っている。
 けれど、このように病院に運び込まれるようなことは初めてのことで、俺は酷く動揺してしまっていた。
 また、そこで思うのは「なんで気付いてやれなかったのか?」ということ。イリヤが「単なる風邪」だと言ったその嘘に。
 そのくやしさをぶつけるように、俺は目の前の公衆電話を叩きつけた。
「くっ、そ……!」
 まだ診察時間をほんの少しばかり超えただけのこの時間帯、そこには似つかわしくないほどの大きな音がこの病院に響く。……いや、病院なのだから何時であろうと静かでなくてはいけなかったか。
 そして俺は反省とも自嘲ともつかない笑いをもらしながら、その電話に背を向けて歩き出した。この病院に入院しているであろう人の奇異の視線に見送られながら……


 当然ではあるが、この病院という所の廊下は俺の家の廊下よりもずっと静かだ。
 冬の空気の冷たさは勿論のこと、病院特有の臭い、そしてここに居る人たちの思い……とでも言うのだろうか、悲しさ、くやしさ、孤独――俺の家にはないそんな感情が一層辺りを肌寒くしているようだった。
 車椅子の人、松葉杖の人――そんな人々の合間をすり抜け、このリノリウムの床を激しく打ち鳴らしながら進む。
 そして辿り着いたのが、先程イリヤと藤ねぇが入って行った一つの診察室。
さっき通りかかったカウンタの所にも、この辺りに彼女たちの姿がないところ見ると、診察はまだおわっていないようだ。
 俺は診察室のドアの対面にある壁によりかかり、「ふぅ」と長いため息をもらした。
 まだ結果が出ていないこと――逃げてるだけだと言うのに、俺は安堵していた。
 「もしかしたらこういう日が訪れるかもしれない」――そういう思いがなかったわけではない。けれど、それがあまりにも唐突過ぎて、着いていくことができなかったのである。
「くそぉ……。情けないな、俺」
 手で自分の顔を覆い隠す。誰も居ないこの場だが、今の俺の顔を見られたくなかったのだ。
 
 しかし、こんな状態になったのも突然なら、これからの出来事もまた突然だった。
 顔を覆った手の指の隙間から、目の前のドアの曇りガラスの向こうに人影が映っているのが見えた。
「――っ!?」
 その背の高さからして、そこに居るのは恐らく藤ねぇだろう。
 ドアのノブがカチャリと回る。その回転に伴って、俺の鼓動が早鐘を打つ。
 ドク、ドク、ドク――ゆっくりと手前に開かれていくドア。そして、ついにその奥から彼女たちが姿を現した。
「あ、士郎? こんなところで待ってたの?」
 ちょっと軽めの口調。それはわざとなのかどうかは知らないが、それで俺は少し落ち着きを取り戻していた。
「ああ、そろそろ終わるかな……って、思って」
「……そう」
 そしてそんな藤ねぇの後ろに続いて、イリヤも出てきて、中の医師にお辞儀をしてからドアを閉めた。
「イリヤ……」
 その後ろ姿にたまらず声をかけると、彼女の肩はぶるりと震え上がった。
「…………」
 無言のまま、そして俯いたまま、こちらに向き直る。そのせいで今の彼女がどんな表情を、どんな思いでいるのかを、俺には窺い知ることが出来なかった。
 向き合いながらも黙りこくってしまっている俺たち。そんな様子に見かねたのか、藤ねぇが間に割り込んできた。
「と、とりあえず、詳しくは後でするから。……そうね、じゃあ、士郎は先に屋上に行っててくれる? 私とイリヤちゃんは会計済ませてから行くから」
「えっ、あっ……あぁ、分かった」
「じゃあ、そういうことで。イリヤちゃん、行くわよ?」
 相変わらず俯いたままで、俺と顔を合わせようとせずに、イリヤはコクリと頷く。
 そして藤ねぇはそんなイリヤの手を取ると、その場からまるで逃げ出すように去っていった。
「あ……」
 その背中に何か声をかけようと手を伸ばすのだけれど、その手は空を切った。そして、それで声もかけられなくなっていた。
「ちっ」
 伸ばした手を握りしめる。
 せめて声だけでもかけてあげるべきだった……あげたかったのに、俺は一体何をしているんだ?
 『イリヤを守る』んじゃなかったのか、俺は……っ!
 その握った拳のまま、ガンッと壁に叩きつけた。




 
 藤ねぇの言いつけ通り、一足先に屋上に着いた俺は、フェンスに身体を預けながら、その青い空を見上げていた。
 澄んでいて張り詰めた空気。そしてこの雲一つない快晴の空。晴れない気持ちの俺とは違い、この外の天気は嫌味なくらいに晴れ渡っていた。
 煙草でも吸う人にとっては、こんな所で一服すればこの気持ちが晴れるのだろうか? そんなことを嫉妬を覚えながら、冬木の街を見渡した。

「おまたせ、士郎」
 俺がここに着いてから幾分も置かずして、再びその扉は開かれた。
 背中に近づいてくる二つの気配。藤ねぇと……イリヤ。
「どうしたの、士郎? 黄昏るにはまだちょっと時間が早いわよ?」
 そんな冗談を飛ばすのは、藤ねぇの素なのか、それとも俺を気遣ってくれているのか、良く……分からない。けれど、俺はそれに返事をした。
「そうだな。まだ、早いよな……、黄昏にも、何を思うにも」
 ピシャリと頬を張り、意を決してその場から振り返った。
「…………」
 そこには当然の如く、藤ねぇと、その影に隠れるように立っていたイリヤ。
 さっきから思っていることなのだが、イリヤはどうして俺から隠れようとするのだろうか? やはり診断の結果ゆえの行動……なのだろうか? それが気になって仕方がなかった。
「それで、どうだったんだ、結果は?」
「うぅん、とね……」
「?」
 ここまできて、何故か渋る藤ねぇ。こめかみに指を当てて唸るその様は、困っていると言うよりは、どこか呆れているようにも感じられた。
「藤ねぇ?」
「うん、私から言うべきなのかな?って疑問に思って。……ねぇ、イリヤちゃん? 本当に私から言って良いの?」
 振り返り、後ろで小さくなっているイリヤに声をかけると、彼女はただコクコクと頷くだけだった。
 そして、それを確認した藤ねぇは「はぁ」と大きなため息と共に、また俺の方へと向き直った。
「士郎……よく聞きなさい。これは士郎にももの凄く関係があることだから」
 俺が見たこともないほどに真剣な眼差しを向けられ、ゴクリと大きな唾を飲み込んだ。
「イリヤちゃんはねぇ…………」
 そして発せられた、その言葉――



「『おめでた』よ……」



「えっ……」
 それは今日一番、いや、生まれてから今日までで、最も驚いた台詞だったかもしれなかった。
「はぁ、全く……。まさか二人がこんなことになってるなんてね」
 そしてまた大きくため息をつく藤ねぇではあったが、今の俺にはそんな姿など目にも入らなかった。
「『おめでた』って……、イリヤ、本当なのか?」
 自分でもまだ信じきれないその言葉を、イリヤではなく、まるで自分に言い聞かせるように呟く。
 目の前のイリヤはまだしっかりと俺の方を見れない様子だったが、それでもしっかりと……顔を赤く染めながら「コクン」と頷いた。
「――――」
 全身に電撃が走るような衝撃だった。
 イリヤが『おめでた』?
つまり、イリヤに子供が出来たってこと。しかもそれは……俺の、子供。
 その事実に、俺は『喜び』という名の衝撃に震えていたのだ。
 そして今すぐにでもイリヤの下に駆け寄って、この手で強く抱きしめてあげたかった。「でかした!」……そう言ってあげたかった。
それくらい、俺には嬉しかったのだ。

 『切嗣』という同じ親を持つ俺とイリヤ。けれど、本当の『親』というものを知らない俺とイリヤ。
 俺の本当の親は冬木中央公園を中心に起きたあの忌まわしき聖杯戦争で死に、イリヤの本当の親である切嗣も今から数年前、イリヤに出会うことなく他界した。
 そういう点では俺とイリヤは酷く似ているのだ。
 そして、俺にはそんな過去があるからこそ、『親と子』ということには特別な感情を抱いていた。
イリヤ自身はどう思っているかは分からない。けれど、俺が親となり、子を授かるということ――それがある意味、至高の喜びだったのだ。

 けれど、俺はイリヤの下に行けずにいた。
 それは、その『喜び』がまるで鏡像に映ったかのような『不安』があったからだ。
 『不安』――それは何も、経済面云々、子育て云々で言っている訳ではない。
俺が危惧しているのは――――イリヤの、身体。その思いが『喜び』という名の太陽を覆い隠す暗雲と

「シロウ、私……」
「…………駄目、だ」
「っ!?」
 その言葉を吐いて驚いたのはイリヤだけじゃない。藤ねぇも……俺自身だって驚いていた。
いや、悔しかったんだ。こんな言葉を言わなければならなかった自分自身に。
「士郎、貴方、何て事をっ!?」
 藤ねぇのそんな激昂が耳に痛い。イリヤの泣きそうな顔を見るのだって辛い。
俺だって、こんなにも……辛い。そして、きつく噛んだ唇から真っ赤な液体が一筋流れ落ちた。
「イリヤは分かっているのか、自分の身体のことを? 『子供が出来たから産みます』――そんなことできる身体じゃないんだぞ?」
「分かってる。そんなこと分かってるよぉ!!」
 家に居た頃からずっと大人しかったイリヤが、ここに来てもの凄い悲鳴をあげた。
「うっ……」
 その叫び声のあまりの激しさに俺は一歩怯んでしまい、屋上のフェンスがコツンと当たった。
 そんな追い詰められた俺をさらに追い詰めるかのように、藤ねぇも叫ぶ。
「産ませるつもりがないのなら、なんでそんなことしたのよ!? 私は士郎をそんなに無責任な子に――」

「分かってるっ!!」
 そして俺の口からは、イリヤや藤ねぇのにも劣らない叫びが飛び出ていた。
「し、士郎!?」
 きっと予想もしていなかったであろう俺の反発に、今度は藤ねぇたちが一歩退いていた。
「藤ねぇに言われなくたって分かってる。分かってるけど……俺は……っ」 
「シロウ……」
 情けない。俺はこんなので「イリヤを守れている」なんて言えるのだろうか?
言える筈がない。イリヤにこんな悲しそうな顔をさせているのに。
 後ろにあるフェンス。あまりの情けなさに、ふとここから飛び降りてしまいたくなる。
勿論そんなこと出来ないけれど、フェンスの下を眺めようと足元に視線を移すと、じわりと水滴が落ちたような跡が見られた。
 雨?――そんな訳あるはずがない。だって、ついさっき空を見上げたばかりだ。雲一つない晴れ渡った空を。
 ならば、これはなんだ?

「シロウ」
 そんなことを考えていたその時――この寒い冬空の下、俺の背中に温かさが灯った。その温かみは……イリヤ。
彼女たちに向けた背に、彼女が抱きついてきたのだ。
「イリヤ、俺……」
 俺の胸の前に回された彼女のその小さくて白い手をギュッと握りしめた。

「シロウ、私……産みたい。シロウの赤ちゃん、産みたいの」

 吐息と共に吐き出されたその言葉は、俺の背中にぶつかって、弾けた。そしてその言葉に秘められた優しさ、温かさがじわりと俺の中に広がっていくようだ。
「でも、イリヤの方が分かっているんだろう? 自分の身体のこと。出産に耐えられるはずもないってこと」
「……うん」
「だったらっ!」
 振り向いて、イリヤのその華奢な肩を掴む。痛いくらいに強く。
 けれど、彼女は全く怯むことなく、俺の目を真正面から見つめ返してきた。
「シロウには前に言ったよね、私の身体のこと。もう、長くはないってこと」
「…………」
 声には出さず、首を縦に動かすだけで返事をする。
 そしてイリヤも俺の返事を見ると、話を続けた。
「私ね、結局何もできなかった。今だって、ただ何もせずに生きてるだけ」
「そんなことない。俺はイリヤが居てくれるだけで……」
「うん。私、シロウにこんなに想われていてすごく嬉しいよ。けど、何も出来ない私には『生きている意味、生きている実感』が何もないの」
「そんな……」
 否定したかった。否定してやりたかった。
俺とイリヤは似たもの同士……、けれど、俺はイリヤじゃない。イリヤの真の胸の内なんて分かってやれてないのだ。
 そしてイリヤは俺のそんな心中を思ってか、俺に優しく微笑んでくれた。
「いいの、シロウ。本当のことだもん。
『聖杯』として生み出された私。切嗣に『復讐』しようとしてた私。――結局、私はどちらもこなすことができなかった。
こんな私なんて「 」だ。何もない、何も出来ない……「 」の私なの」
「それは違――」
「違ってない!! 違ってないから、私にはどうしても『生きている実感』が……『生きている証』が欲しかったの!」
「イリヤ……、まさかその『証』ってやつが?」
 俺の疑問にイリヤは小さく頷いてから、その小さな身体で俺にがしっと抱きついてきた。
「お願い、シロウ。…………お願い」
「イリヤ。お前、そんなに……」

 俺は彼女を胸に抱きながら考える。
 こんなにも小さな身体。とても弱い身体。けれど、彼女の想いはこんなにも大きくて、強い。
 その想いに応えてやるなら、俺は一体、何をすればいいのだろうか?
 そして、俺は本当は何がしたいのだろうか?
 
 いくら考えてみても、俺の中での結論は一つしか思い浮かばなかった。

「イリヤ……、お願いがあるんだ。聞いてくれるか?」
「うん?」
 イリヤの想いに応えるように、俺はこの腕に一層力を込める。
そして彼女の耳元で、そっとその一言を口にした。



「……俺の子供を、産んで欲しい」

「うん、……うんっ!」

 俺とイリヤの間――隙間すらないそこに、雪がひとひら……舞い落ちた。






 to be continued…




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